Imperial Jade -2-





 自分のことさえ、考えていれば良かったあの頃。

 いつまでも子供のままに居たくて、変わらずずっとそのままで居たいと願っていたあの頃。

 変わることが許せなくて、変わろうとしていた幼なじみの事すら受け入れ難かったあの頃。

 ―――――───そんな戸惑いや焦燥さえ、考えていれば良かったあの頃。

 それだけが全てだった、あの頃。

 目を閉じれば簡単に、心は『あの頃』へと飛ぶことが出来るのに・・・・・・。



















 上を仰げば、大樹達が高くたかく天まで届くかのように伸びて、緑なす葉が生い茂った枝が傘の如く広がり空一面を覆っている。
 その枝達の隙間から眩しい陽の光が差し込んで、生い茂った緑葉をキラキラと宝石細工のように輝かせ・・・・遥か下の地面に生えた柔らかな草や木々の根元、そして大木にもたれ掛かり座っているリュシオン達にも暖かな陽射しを投げかけていた。

「・・・・・・・・」

 ポカポカとした暖かな日の光と、時折吹き抜けていく優しい風が心地良い。そのままトロリとした眠気に襲われ、リュシオンは何の気無しにいつの間にか口ずさんでいた鼻歌を止める。
 そして自分の傍らで柔らかな緑の絨毯の上に大の字になり、既に寝入ってしまっているらしい黒ずくめの衣装に身を包んだ少年の様子を、そっと伺った。

「・・・・ネサラ?」

 だが、余程深く寝入っていると見えて、少年はリュシオンの呼びかけにぴくりとも動かない。
 背に生えた黒い翼も、草の上に力無くだらんと伸ばしたままで・・・随分と大人びた印象を与える切れ長の瞳も今は閉ざされ、リュシオンが大好きな黒曜石みたいなキレイな漆黒の目は存在を隠している。
 いつも絶えずリュシオンを笑わせ面白い話を紡いでくれる薄い唇も、今は気持ちよさそうに僅かに綻んでいるだけで、動く様子は無かった。

「ネサラ・・・・・・・・、」

 完全に、寝入ってしまっている。
 リュシオンは、自分を放ってグッスリと眠り込んでしまった年上の幼なじみをどうしたものかと、もう一度木に寄りかかり直しながら少年を眺めた。

「・・・・・・・・・・」

 安心しきって警戒心の欠片も無く、寝入っている少年。そんな様子を見られるのは、極めて珍しい事であり・・・そして極限られた者にしか見せない態度でもある事をリュシオンは知っていた。
 ネサラは鴉の民が住まう国、キルヴァスの第一王位継承者であり・・・いつ何時、次期王位を狙う者達に命を狙われてもおかしくない立場なのである。

 キルヴァスは此処リュシオンの住む国セリノスとは違い、とても治安の悪い国でいつも争いに満ちているらしく・・・・只でさえ安全とは言えない場所であったのに、最近父王の具合が良くない事もあり余計に気の抜けない状態になっているのだとネサラ自身が言っていた。
 ラグズの国の王は、その国(種族)で最も力有る者が王となる。―――――──それ故、次代の王が国の民に認められる迄には『己こそが最強』なのだと力を示す為、時に生き死にに関わる流血の惨事になることも珍しい事では無い。

 随分と野蛮で恐ろしい習わしだとリュシオンなどは思ってしまうが、ラグズの世界ではそれが当たり前であり、人間・・・・ベオクの国の様に血の系譜によって次代の王位が決められる、セリノスの方がラグズの国としては異端なのだろう。そもそも、鷺の民は戦う術を持たない為、力を誇示することなど不可能なのだけれど。
 そして、ネサラはまだ若年の身ながら、その戦闘能力は鴉の民の中でも飛び抜けた存在であり父である現キルヴァス王から次代の王にと有望視されている事もあって、時期国王の座を狙っている者達からの襲撃も激しいらしく、ネサラはいつも神経を尖らせ周囲に気を配っているのだ。

―――――───それは此処、セリノスに来ている時でも同じ事で。

「・・良く・・・眠っているな・・・・・」

 だからこうして警戒心の欠片も無く、気持ちよさそうに寝入ったネサラの姿など見たのは本当に久しぶりだった。

「・・・・・・・・・・」

 リュシオンはゆっくり、もう一度自分を置いて勝手にどんどん己だけ大人になっていこうとしている、幼なじみを見つめる。
 年齢は、ネサラの方が数年上だというだけで、さほど変わらない。けれども、纏う雰囲気や考え方そして確実に変化しつつある彼の姿が、リュシオンよりもずっとネサラを大人びた印象にさせていた。
 鋭角的な印象を与える高い鼻梁、薄い唇。まだ少年らしいあどけなさがやや残るものの、スッキリとした頬や顎のライン。大人の男に成長しつつある証の喉仏や広い肩幅、薄く開いたシャツの胸元から覗く鍛え上げられた胸板が、ネサラが『少年』から『大人の男』へと変わりつつある事を示している。

「・・・・・・・・・」

 フェニキスに住まう鷹の民に比べれば、細身だけれどちゃんと筋肉の付いた激しい戦闘にも耐えうる敏捷な体つき。遠く何処までも飛んでいけるだろう力強く羽ばたける闇色の翼―――――─成長した所で、リュシオンには何一つ備わらないだろう強靱な身体・・・・。

「・・・・・・・・」

 幼い頃には何一つ意識しなかった種族の違いによる成長の差に、何とも言い難い複雑な心地になったリュシオンは深く溜息を吐き―――――──ふと、ネサラの緩く後ろで纏められた僅かに癖のある髪が、幾本か解れて頬に掛かっているのに気づいた。

「・・・・・・・」

 起こさないようにそっと細い指先でそれを払ってやる。

「・・・ん、」

 だがそれですらネサラの眠りを妨げてしまったのか、その細めに整えられた形良い眉が顰められ、無意識の仕草なのだろうか・・・・頬に触れたリュシオンの手をガッ、と握ってきた。

「!」

「・・・・・・」

 そしてそのまま、薄く開いた漆黒の瞳でリュシオンを見上げる。

「・・・・・リュシオン・・・?」

「起きたのか、ネサラ」

「・・・・・ん〜〜〜・・・、」

 ネサラは怠そうな、返事とも唸りとも付かない声を上げるとようやくリュシオンの手を離し、ノロノロと起きあがった。

「―――――あんまり、気持ちよかったんで・・・・つい寝ちまった」

 言いながら、ポリポリと頭を掻く。

「起こしてくれりゃ良かったのに。暇だったろ?」

「・・・・・陽射しと風が、心地良いからな。私も、何だか眠くなってきたところだったんだ」

 眠ろうとしていたくせに、つい幼なじみから目が離せなくなってその機会を逸した事が今更気恥ずかしくなったリュシオンは、微かに白い頬に血を上らせつつ何気なさを装って答える。

「そっか。あ〜〜〜、でも、マジ気持ちよかったぜ・・・」

 そんなリュシオンの様子には気付かなかったのか、ネサラはアッサリと納得した様に頷き、機嫌良さそうに両腕を上げて伸びをした。

「お前の歌、やっぱ最高だなリュシオン。お前の声を聴いてると・・・・何かスゲェ気持ちよくなって、ホッとした気分になる」

「・・・・・・・・」

 どうやらネサラがぐっすり寝入ってしまったのは、先ほどリュシオンが何気なく口ずさんでいた鼻歌に聴き入ってしまったせいらしい。

「流石『鷺の民』だよな。歌なんか全然興味の無い俺でも、ついつい聞き惚れちまうくらいキレイな声だ」

 ラグズでありながら戦う術を一切持たぬ『鷺の民』。唯一の能力は呪歌であり、その歌声は天上のものにも喩えられる程に美しく、様々な『奇跡』を起こすと言われている。
 鷺の民の王族であるリュシオンにとって、『歌』は日々の日課のようなものであり、気分がよい時は自然と何某かの旋律を口ずさんでしまう。
 謡うという事は、鷺の民にしてみれば嬉しい時に顔に笑みを浮かべたり悲しい時に表情を曇らせてしまうのと同じくらい、『感情』を表す手段として、ごく日常的な行為なのだ。

 けれども、そんな鷺の民にとって日常的な感情表現の手段が、他の種族から見ると酷く特殊で評価が高いものらしく、やたらと好まれる。ネサラも逢う都度、リュシオンに『何か謡ってくれ』と要求する事が多かった。

「・・けど、儀式の時なんかに他の奴らの歌とかも聴くけど、お前ほどじゃないよなリュシオン。やっぱりお前の声が一番好きだぜ」

「・・・・そうか?」

 自分の声が綺麗だとか歌が上手いだとか、そういった類の事をリュシオンは考えた事が無い。けれども、ネサラが自分の歌や声を気に入っているというのはリュシオンにとって密かな喜びであり、何より大切にしたい『自分の中の宝物』だった。
 初めてネサラに歌を聴かれ、褒められた時・・・・やっぱり『鷺の民の声』だからでは無く『リュシオンの声』が好きだと言われた時に、もっともっと上手くなってネサラを驚かせてやろうと意気込んだのを覚えている。―――――それは、今も同じで。

「・・・・・・・・、」

 歌を褒められ、誇らしい気持ちと照れくささが相まって先ほどから火照り初めていた頬が更に紅潮したのを感じ、リュシオンは僅かに顔を俯ける。
 そんなリュシオンに僅かに上体を傾け、ネサラがそっと髪に触れてきた。

「・・・・・・キレイだ」

 小さく声を漏らし。肩に掛かる程度の金色の髪を掬って、指の間からサラサラと流れ落とす行為を何度も何度も繰り返す。

「・・・・ネサラ?」

「キレイ、だよなお前は。声も髪も、顔も手も・・・何処もかしこも、全部」

 リュシオンの髪の手触りを確かめるように触れていた手を、今度は後頭部の方へと回し優しく撫で始めながらネサラは呟く。

「・・・・・・・・・」

 どういう意味かと、リュシオンは深く、けれども明るく澄んだ緑の瞳でジッとネサラを見つめた。
 今まで何度と無くネサラのこの言葉は聞いている。そしてその度にリュシオンは適当に受け流してきた。彼の言葉は本当に軽いモノで感情など篭もっていない挨拶程度の重みしか無い事が、リュシオンには分かっていたから。
 だが。今のネサラの口調には、普段の軽口と似たり寄ったりの言葉ながら、簡単に受け流せないような、そんな響きが感じられたのである。



 何処かが、違う。何かが、いつもと違っている。




「・・・・・・・・・、」

 髪を撫でてやっているのに、いつもみたいに大人しく気持ちよさそうにされるがままにならず、自分をジッと見上げるリュシオンの態度に、ネサラは一瞬何かを決めかねるような躊躇う表情を浮かべた後、意を決したかの如く唇を引き結び。

「リュシオン、これ、お前にやるよ」

 頭を撫でていた手を一端引っ込めて、懐から何か銀色に光る物を取り出した。

「・・・・・・?」

 手の平に乗せられたのは、細長い形をした銀色の物体。
 先端の一方が細く尖り、もう一方の太い方には幾つもの美しい翠色の宝石が填め込まれ、繊細な細工がしてあった。幾本かの鎖状に編まれた、宝石と彫金細工の飾りが付いており、それが揺れるとシャラシャラと澄んだ可愛い音がする。
 繊細な細工と輝きに相応しい、乗せた手の平に感じる重みが単なる安物では無い事を告げていた。

「キレイな細工だろ? 城で見つけてさ・・・お前に似合いそうだと思ったから、持ってきた」

 言いながらネサラはリュシオンの手からもう一度受け取り、器用な手つきでリュシオンの後ろ髪を少し束ねて髪飾りを付けてくる。

「ほら、やっぱ良く似合う。お前の金色の髪に、この髪飾りスゲー映えると思ったんだよ。―――――付いてる石が、お前の目の色ソックリだしな」

「そうか?」

 後ろに付けられた上、鏡も持ち合わせてない為、リュシオンにはどうなっているのか見えない。だからどうしても素っ気ない受け答えになってしまうが、それも仕方のない事である。
 だがそんなリュシオンの態度を気にした様子も無く、ネサラは満足げに頷いた。

「ああ、似合ってる。持ってきて正解だったな」

「・・・・・・・・」

 ネサラが、自分にプレゼントを持ってくることは珍しくない。だが、やはり何かいつもと違う気がして、リュシオンはその理由がネサラの顔に描いてあるかのように彼の顔を凝視した。
 いつもと違い、深く寝入ってしまったネサラ。軽い口調なのに、どこか違う印象を与えるネサラ。髪飾りをくれる前、何故か複雑そうな表情を浮かべたネサラ・・・・・。



 何か違う。何処かが、絶対に。

 そういえば、ここ何ヶ月かの間、セリノスに顔も見せなかったのに・・・・何故今日はいきなりにプラッと姿を現したのだろう・・・・?

 さしたる用事も無さそうだったし、訪れてネサラが今日セリノスでした事といえば―――――───こうして、森でうたた寝をしただけなのだ。




「・・・・・・・・・」

 漠然とした、不安みたいなものがリュシオンの胸を過ぎる。暖かな陽射しに照らされ、柔らかな風に包まれて心地よい筈のセリノスの森の中・・・・ふと暗い影に覆われたような気がした。

「・・・・ネサラ、」

「リュシオン」

 不安が募る中、理由が分からないまま幼なじみに問いかけようと、口を開きかけたリュシオンを遮るようにネサラが名を呼ぶ。

「―――――───俺がキルヴァスの王になったら、」

 そして、見たことのない真摯な顔つきで言葉を続ける。

「お前を、迎えに来てもいいか? リュシオン」

「・・・・・・・・・ネサラ」


 キルヴァスの王になったら迎えに来る―――――出逢った頃から、何度と無くネサラが口にしていた言葉。



 いつも、軽い口調だった。本気じゃないと分かっていたから、いつだって『行く』と言ったり『行かない』と答えたり・・・・その時の気分で返事をした。
 セリノスとキルヴァスは同盟国。実際に鷺の民が鴉の国へ行くとしても・・・別にそれは問題にはならない。けれども、鴉と鷺・・・・・同じラグズであり鳥翼族であるとはいっても、やはり生活習慣なり食生活はかなり違うワケであり、障害は少なくないだろう。
 ましてリュシオンは末の、とはいえセリノスの王子である。そう軽々と他国へ行ってしまっていいものなのかという気がする。

「・・・・・・・・・・」

 幼い頃であるのなら、行っても良いと思っていた。難しいことは何も考えず、ただただ、仲の良いネサラと共に、居たかっただけだから。
 けれどそれは、本当に幼い頃の事。『一緒に居たい』ただそれだけでは、実現できない幾つもの障害がある。具体的に考えたことは、1度も無かったのだ。

 だって、いつもネサラは軽いジョークで、その台詞を口にしていた―――――───。



「ネサラ、でもそれは・・・・」

 だが、今日のそれは、いつもの軽口じゃないと分かったから。
 リュシオンは戸惑いつつ、無理だと言おうとした。
 その言いかけた唇が、ネサラの唇によって塞がれる。

「!?」

 額にするのでも、頬にするのでもない、紛う方無き、口付け。それは、友人間の行為では無くて・・・・・・・。

 反射的に離れようとしたリュシオンの身体は、その背に素早く回されたネサラの腕によって身動きが取れなくなる。

「んーっ、んっ・・・!!」

 パニックになり、無我夢中でリュシオンは藻掻いた。だが、背に回された腕と後頭部を支えるネサラの手によってガッチリと抑えられている為、リュシオンはただ彼の腕の中で震える事しか出来ない。

「・・・・・・・・っ、」

 強引に歯列を割り、熱い舌がリュシオンのそれに絡められる。逃げても逃げても、口蓋や歯肉を舐め上げられ奥に縮こまろうとする舌を吸い上げられる。呼吸すら奪われるような激しい口付けに、息も付けない。頭の中が霞がかっていく。

「ん・・・んん・・・・っ!!」

 ヌラヌラと口内を這い回る、熱い舌の感触が妙にリアルだった。かつて味わったことのない唾液と唾液が混じり合い、舌と舌が絡み合う・・・・・敏感な粘膜への刺激。

「ふ・・・・っ、んん・・・・」

 ネサラに付けられた髪飾りがシャラシャラと澄んだ音を立てるのを、リュシオンはボンヤリとした頭で、何処か遠くで鳴っている警鐘のように感じていた―――――───。













「はぁ・・・・っ、」

 軽い酸欠状態になり意識を失う寸前に、ようやくリュシオンは解放された。

「・・・・・・・・・」

 涙混じりの瞳で傍若無人な幼なじみを見上げれば、ネサラは見たこともない様な真剣なまなざしでリュシオンを見つめている。切れ長の双眸に込められた『真摯さ』が、怖いくらいにリュシオンに伝わってきた。

「!・・・・・・っ、」

 抗議の声を上げる事も出来ず、リュシオンは息を呑む。

「俺は本気だぜ、リュシオン。お前はセリノスの末の王子だ・・・キルヴァスに来るのに、さしたる支障は無い」

「・・・・・・・・」

「お前は、俺と一緒に居るのは嫌か?」

「・・・・・・・、」

 嫌か、と聞かれてもリュシオンには答えられない。
 たった今、ネサラの真の気持ちを理解したばかりなのだ。
 幼い頃からの、約束めいた『迎えに来る』という言葉。それが単なる言葉遊びでは無く、最初から本気だったのだと・・・・友人としてではなく、そういう意味での言葉だったのだと、ようやくリュシオンは理解したばかりであり、混乱して何かを判断できるような状況には無かったのである。

「・・・・・・・・」

「――――返事は、今すぐじゃなくていいさ」

 呆然と己を見上げたまま微動だにしなくなった幼なじみに、ネサラは苦笑を浮かべた。

「俺がキルヴァス王になったら、その時に返事をきく。・・・勿論、良い返事を期待してるけどな」

「・・・・・・ネサラ」

 何をどう言えばいいのか分からず。リュシオンはただ酷く困惑したままネサラを見上げるしかなかった。
 勝手に唇を奪われたという許し難く失礼な行為に対する怒りも忘れ、ただただリュシオンは仲の良い幼なじみだった彼に、どう答えたものかという事柄にのみ思考が傾く。

 ただ一つ、分かっている事は・・・・自分がどう返事をしようと、今の『関係』が壊れてしまうだろう事だけである。
 『行かない』と答えれば、それはネサラ自身との決別に他ならないのだろうし、『行く』と答えたのならば―――――───それはそれで、この『友人関係』との決別になる事を意味していた。

「・・・・・・・・・・・・」

 どっちも、嫌だった。ネサラと離れるのは嫌だったし―――――─『今の関係』が壊れてしまうのも、嫌だった。
 今のままがいい。今のまま、何も変わらないのがいい。変わらない事こそ、自分の一番の願いである。
 けれども、そうする為にはどう言えばいいのだろうか? 選択肢は二つしかない。三つ目を提示するには・・・・ネサラに、何を言えばいいのだろう?

「・・・・・・・・・・・」

 リュシオンは途方に暮れ、自分の意に反し縋り付くような視線で目の前の幼なじみを見つめたまま、グルグルと頭の中で解決策を必死に巡らせていた。












 何も打開策が思いつかないまま、そうこうしている内にどれ程の時間が流れたのだろうか。

「・・・・じゃ、そろそろ俺は帰るぜ」

「!」

 いつの間にか思考がストップしていたリュシオンに、不意にネサラからいとまの声が上がる。

「じゃなリュシオン、次逢う時まで元気でいろよ」

「ネサラ・・・・!」

 引き留める暇も、あればこそ。
 鴉に化身した後の、ネサラの飛ぶスピードは凄まじく速い。リュシオンが鷺に化身したとて、到底追いつける速度では無いのだ。

「・・・・・・・!」

 リュシオンが見つめる中で、黒い翼をもつ大鳥はどんどん夕焼けの空に小さくなっていった。
 暇を告げる声には、黙りこくったままのリュシオンの態度を怒っている様子は無かったけれども―――――───。

「ネサラ・・・・・」

 嵐の様に衝撃的な言葉を突きつけ、ハリケーンの様な早さと力強さで強引に唇を奪い、今まで築いてきた友人関係を根こそぎぶち壊しかねない『告白』は、まさにリュシオンにとっては激しい落雷にでも打たれたかのようなショックをもたらした。

「・・・・・・・・・」

 ドッと疲れが出て。
 森の中で立ち尽くしていたリュシオンは、その場にヘナヘナと力無く座り込む。座り込んだ拍子に、ネサラに付けられた髪飾りがまた、シャラシャラと鳴った。

「・・・・・・・・」

 緩慢な動作で、リュシオンは後ろ髪に付けられたその飾りに手を掛け、無造作に引っぱる。飾りに絡まった金糸が数本抜けたらしくピリッとした痛みが頭皮に走ったが、構わずにそのまま抜き取った。

「・・・・・・・」

 銀の髪飾り。美しい細工が施されたその装飾品は、どういう経緯で手に入れたのかは知らないが、ネサラが自分に似合うと言ってくれた物である。
 ネサラは昔から綺麗な物を好んでいた。だから、そんな彼がくれる品物は全て美しく品の良い細工の物ばかりである。
 そして、この髪飾りは―――――─よくよく考えれば、今まで彼がくれた物の中でもかなり高価な部類に入り・・・・特別な意味が込められた品、という気がしないでも無かった。

「―――――───、」

 気付かなかったのは、気付いていなかったのは、自分だけ。
彼の気持ちを勝手に、軽いものだと決めつけて・・・思いこんでいたのは、自分だけ。
―――――───ネサラは昔から、己の気持ちを打ち明けていたというのに。

「ネサラ・・・」

 それでも。彼の気持ちを、ハッキリと自覚しても『自分がどうしたいのか』は分からなかった。

「・・・・・・・・イキナリじゃ、・・・・・どうしたら良いのか・・・・分からない」

 ヒンヤリと金属の冷たさを伝えるその髪飾りを握りしめ。リュシオンは力無く呟いた―――――───。





「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 その時の自分には、ネサラとこれからどう接すれば良いのかだけが悩みであり。
 もう、楽しかった子供の頃のように遊び合うだけの他意のない関係には戻れないのだろうかと、そればかりが関心であり、―――――───それだけが全てだった。










 自分のことさえ、考えていれば良かったあの頃。
 いつまでも子供のままに居たくて、変わらずずっとそのままで居たいと願っていたあの頃。
 変わることが許せなくて、変わろうとしていた幼なじみの事すら受け入れ難かったあの頃。
 ―――――───そんな戸惑いや焦燥さえ、考えていれば良かったあの頃。
 それだけが全てだった、あの頃・・・・・・・・。






「・・・・・・・・・・」

 今なら。それがどんなに幸せな事だったのか、良く分かる。
 自分がどんなに、幸福な環境に包まれていたのか―――――───。

「・・・・・・・・・・」

 全てが、一夜にして奪われた・・・・あの20年前の惨劇。
 セリノスの滅亡。
 無抵抗に死んでいった、母や兄、姉たち・・・そして妹。数多くの、鷺の民達。

 ベグニオンの人間達による、セリノスの大虐殺。・・・・・・生き残ったのは、自分と、年老いた父親だけ。

 全てが燃え尽きた。剣や槍、鍬や鍬・・・・それらの凶器を突き立てられ真っ赤な血しぶきを上げて倒れていった鷺の民達を、ベグニオンの奴らが仕掛けた炎によって全てが消し炭と化していった。

 墓を建ててやりたくとも、華奢な体つきの鷺の民では焼き尽くされれば骨も残らない。美しかった森も、瀟洒で繊細な城も、何もかも―――――全てが炎に舐められ消えていった。

「・・・・・・・・・・・・」

 心臓が掴み上げられ、息が止まってしまうような凄まじい恐怖と身体が二つに裂かれてしまうような苦しみと悲しみ・・・そして目が眩むような激しい怒りを感じたのを覚えている。

「―――――───、」

 手にしていた銀色の髪飾りを握りしめたまま、リュシオンはフェニキス城の一角に与えられた自分の居室の窓へと、足を向けた。

「・・・・・・・・」

 ゴツゴツとした険しい岩山と、その向こうに広がる海。その光景に、かつてのセリノスの姿を思い起こす片鱗は見受けられない。過去を彷彿とさせる物は、ここには一つも存在していないのである。

「ネサラ・・・・」

 リュシオンは、握りしめていた手の平をそっと開き、この20年ずっと大切に持ち続けていた髪飾りをじっと見つめた。

 結局、彼への返答はしないままだった。

 彼にこの髪飾りを贈られ、ゆくゆくはキルヴァスへと望まれたその日の一週間後の夜―――――─鳥翼族にとって一切の身動きが出来ない闇に包まれている時刻に―――――セリノスは、ベグニオンの民による侵略を受け・・・・三日と経たぬ内に滅亡してしまったし。僅かに生き残っていた父ロライゼとリュシオンは、鷹族の王ティバーンによって身柄を保護され、そのままこのフェニキス城へと身を寄せる事になったから。
 ネサラから受け取った、この装飾品はリュシオンにとって『セリノスでの楽しかった幸せな頃』と『セリノスの滅亡』という両極端な記憶の象徴であり、記念の品でもある。

「・・・・・・・・・」

 返事ばかりか、ネサラとはそれ以来顔も合わせる事は無かった。
 キルヴァスとフェニキスはあまり仲が良くないのは知っていたし、後見であり実際に面倒を看てくれているティバーンの事を考えれば自分からキルヴァスへネサラを訪ねる事も憚られたからである。

「・・・・・・・・・・」

 それに、ここ最近のネサラの行動がリュシオンには気に掛かっていた。
『キルヴァス王ネサラはニンゲン達と癒着し、相当数の取引をしている―――』との噂がまことしやかに流れ、しかもそれは事実らしい。
 ラグズは元より、ベオク・・・・ニンゲン達の事を好かぬ者達が多く、ガリアのカイネギス王の様なニンゲンに歩み寄るラグズの方が余程珍しい存在である。
 人間達に、半獣だと差別され殺されたり奴隷にされてきた歴史が、ラグズの人間嫌いの根底にあるのだ。
 それ故、そんな人間達と癒着があるなどというのは、ラグズ達にとってはトンデモナイ事なのである。

「・・・・・・・・・・」

 まして、父を残し全ての仲間を殺され、多くの計り知れないものを失った立場であるリュシオンにしてみれば。ネサラの行動は裏切りにも等しい。

「ネサラ・・・・・」


 彼はもう、変わってしまったのだろうか。

 あの頃の、自分と遊んでいた頃の、優しい彼ではもう無いのだろうか。

「20年あれば・・・変わるには充分な時間・・・か・・・・」



 ラグズにとっての20年。そう長い時間では無いのかもしれない。

 けれど、考え方が変わるには充分すぎる時間なのかもしれない。



「・・・・・・・・」

 リュシオンは、王位に付くまでの彼しか知らない。キルヴァス王となったネサラが、どういう20年を過ごし、どう感じながら生きてきたのか・・・・・何も知らなかった。

「・・・・・・・・・」

 ゴルドアの会議で昔と変わらず黒ずくめの衣装に身を包み、今ではすっかり王の威厳を備えて鷹王ティバーンと対等に渡り合っていた、鴉の王の姿をリュシオンは思い起こす。
 冷たく鋭い眼光と、何を考えているのか分からない皮肉そうな笑みを浮かべたその表情は、かつてのネサラと少しも変わっていないようであり・・・酷く変わったようにもリュシオンには思えた。

「ネサラ・・・・」

 今でも、目を閉じればあの頃へ戻れそうな気さえするほど、『あの頃』の記憶は鮮明なのに。
 もう決して戻れない・・・・触れられない『過去』である事が未だに信じがたい。
 手の中にある、彼がくれた髪飾りはあの頃と変わらぬ輝きと美しさを放っているのに。

「・・・・・・・・・」

 戻れないと、決めつける事は無いのかも知れない。
 ちゃんと話せば、あの頃のようにリュシオンの話を聞いてくれるかも知れない。

 流石に、あの頃のように『キルヴァスへ来い』などという自分への想いは消え去っているだろうけれども。


「・・・・・・・・・」

 ニンゲンなどと懇意にしようとする、何か重要な訳がネサラにはあるのかも知れないでは無いか―――――───。

「・・・・よし。キルヴァスへ行ってみよう・・・!」

 再び、リュシオンは手の中の髪飾りを握りしめた。そして、勢いよく背の白い翼を羽ばたかせる。
 フェニキスに保護されたばかりの頃は、まだ飛ぶ力も弱くていちいち遠出をする度にティバーンに頼まねばならなかったが、今ならば此処からキルヴァスへ飛ぶくらいは造作もない。
 白鷺の姿へ化身して飛べば、そう時間は掛からずにキルヴァスへ辿り着けるだろう。行って、すぐ戻ればティバーンにも気付かれないに違いない。
 楽しかった『あの頃』の時間を共有する、数少ない者の1人であるネサラ。このままずっと疎遠になり、話も出来ない関係になるのは・・・・・やはりリュシオンとしては辛かった。
 ネサラに逢いに行くなどと言えば、ティバーンがきっといい顔をしないに違いないけれど、それでも彼に逢って、話をしたかった。

 リュシオンにとって、ネサラはやっぱり、大切な友人だったから。

「・・・・・・・・・」


 だから、黙ったまま、1人で行く。



 リュシオンはそう決意すると、1羽の優美な白鷺の姿になって居室の窓から一気に外へと飛び立った―――――───。