『君のためなら世界だって壊してあげる』




ACT 76 『飼育天使−3−』



 

 




「――――――」


 ゴブッと水音を立てる勢いで、アルヴィスの口から溢れ出る真っ赤な液体。

 パウゼもナナシも半ば呆然として、それが彼の細い顎を滴り落ちていく様を見送っていた。


「・・・・・・・・・」


 何とかしなければ、と頭の中では思うものの、身体が動かない。

 このままでは、と焦るのに――――――ただアルヴィスを見ることしか出来なかった。


「・・・・・・・・・」


 アルヴィスの喉が奇妙な音を立てる度に、薄く開いた口元から大量の血液が脈打つようにゴボリ、ゴボリと吐き出され・・・・着替えさせたばかりの白いトレーナーを深紅の色に染めていく。
 抱き抱えアルヴィスの口元に薬の吸入器を押し付けていたパウゼの手にも、生暖かい血液が飛び散り、ゆるゆると伝っていた。






 ――――――・・・今は病状も落ち着いているし、そう滅多なことでは起こらない筈だが・・・・。







 パウゼの脳裏に、以前に言い聞かされたペタの言葉が蘇る。


 アルヴィスの持病についての説明を彼より受けた時、ペタは最後にそう言い足してきたのだ。

 喀血(かっけつ)することがある――――――と、その時ペタはそう言っていた。


「・・・・・・・・・・」


 喀血というのは口から吐き出す肺からの出血のことで、胃やその他の部分からの出血(吐血)して血を吐く場合と区別するための用語らしい。

 口から吐くというのは一緒だから、パウゼ的に見れば吐血と呼ぶのでいいじゃないか、と思うのだが。


「・・・・・・・マジかよ」


 しかしそんなことは、どうでもいい。

 問題は、今現在、アルヴィスが実際に血を吐いてしまっていることだ。





 ――――――・・・そうなったら、お前に対処の術(すべ)は無い。速やかに此方に連絡を。

 その場合、下手をすると即、命に関わる。・・・対処は、早急にな。





 ペタの声だけが、パウゼの頭の中に木霊する。


「・・・・・・・ンなこと言ったって、・・・・」


 アルヴィスを抱き締めたまま、パウゼは途方に暮れた。

 予め指示された通りに従うのなら、ここは連絡をして、指示を待てばいいだけの筈だった。

 しかし今は、場所が問題なのである。
 こんな山中では、連絡した所で駆けつけられるワケが無い。

 かといって、今からアルヴィスを抱えて下山するにしても――――――こんな状態の彼を移動させられるとは、到底考えられなかった。

 下山中に息を引き取られでもしたらと考えれば、ゾッとする。
 その後の展開など、思い浮かべたくもない。


「・・・・・・・・・・・」


 しかも、アルヴィスは未だに血を吐き続けている・・・・・・・・このまま見守っていても、彼の命が危ういことは明白だ。


「・・っ!?」


 呆然としたままアルヴィスの顔を見下ろせば、眼にも鮮やかな赤い血とのコントラストのせいか、青年の顔色がやたらに白く見え。
 パウゼはギョッとして、慌ててアルヴィスの顔を覗き込んだ。


「・・・・・・・・・・・」


 その顔色は、既に人間の肌というより、蝋(ろう)細工のように透き通った真っ白さ。
 どちらかと言えば、死人のそれに近いだろう。

 抱えている身体の低い体温が、また徐々に下がってきた気がして・・・・パウゼはどうして良いか分からず、泣き出したくなった。

 正に、八方塞がり状態である。

 殺し方は知っていても、蘇生法など全く知らない。





「アルちゃん!?」


 そこへナナシが、気を取り直したのか再びアルヴィスの顔を覗き込んできた。


「何でや・・・!? 何で血ィ吐いて・・・・、」


 酷く取り乱している。

 それはそうだろう・・・誰だって何の予備知識も無しにイキナリ傍で血を吐かれれば、動揺するに違いない。


「もしかして、落ちた時に胸打ってたんか!?」


 落ちた衝撃で肺でも打ってたんやろか・・・えらいこっちゃ・・・―――――ナナシは悲愴な声でブツブツと呟き、青い顔になる。


「・・・・・・・・・」


 恐らくそうではなくて、アルヴィスの元から持ってる病気のせいだ・・・とパウゼは思ったが、敢えて訂正はしなかった。

 そんな義理は無いし、いちいちそんなことに関わっていられる程パウゼ自身が、気持ちに余裕など無い。


「・・・・・・・・・・」


 血など、自分のも他人のでも、パウゼにとっては見慣れたものだった。

 単なる、赤い水。

 人間を切り裂いたり撃ち殺したりする時に、臓物なんかと一緒に出てくる、単なる液体だ。
 ちょっと油っぽくてネットリしてて、乾いてくるとネバネバするし、鉄錆(てつさび)臭いけれど・・・・それ以外は別に、絵の具を溶いた色付き水と変わらない。

 珍しくなど全く無いし、それを見て動揺なんてことは有る筈が無かった。
 自分の身体に付着した折に、その始末や他人の眼のことを考えて面倒に思うくらいが関の山である。

 けれど、・・・こんな風に。
 失われてはならない存在の血が流れるのは、――――――堪らなく怖ろしいことだ、とパウゼは思った。

 何故ならその事態は即、『その存在の死』を意味するのであり・・・同時に、パウゼが『許されざる失態』を犯したことをも指すのだから。

 そもそもアルヴィスを、この環境で吐血させてはならなかったのだ。


「・・・・・・・・クソ、」


 鋭いナイフの切っ先で、剥き出しの心臓の表皮を撫でられるような危機感がパウゼを襲う。

 あの美しいアメシスト色の隻眼が、自分を見た途端に冷たい光を浮かべでもしたら――――――・・・そう思い浮かべるだけで、パウゼは絶望したくなった。






 どうしよう。

 どうしたらいい?



 どうしたら、この怖さから開放される?






 震える指で、パウゼはポケットから携帯電話を取りだした。

 頭の中では掛けても無駄だと思いつつ、けれど縋れる先はそれしか無かったからだ。


「・・・・・・・・、」


 リダイヤルを押し、相手先へ接続され呼び出しのコール音が鳴るのを待つ。


 ――――――・・・パウゼか、アルヴィスはどうなっている?


 コール音は、鳴らなかった。

 すぐさま耳慣れた低い声がして、此方の状況を聞いてくる。


「あ、あのよォ・・・!」


 数刻ぶりに聞くペタの声に、パウゼは思わず動揺し高ぶった感情のまま今の事態を訴えて、泣き付こうとした。


 ――――――早く答えろ。アルヴィスはどうなっている?


 けれどそれを遮るように、ペタが再度聞いてくる。


「それは見つけた。けど、・・・」


 ――――――状態は? 発作は起こしてないだろうな?


「・・・っ、!」


 矢継ぎ早に聞かれ、パウゼは動揺した気持ちをぶつけられず苛立った。

 事態は、一刻を争う。
 そんな悠長に、説明している場合では無いのだ。

 質問せずに、こっちの話を聞いて欲しい。


「血! 血ィ吐いてんだよ、ドバドバ!! 咳もしてるし、とにかく血が止まんねェ!!」


 焦れたパウゼは、今の状況を何とかして欲しい一心で叫んだ。


「薬吸わせたけど、効かねーよ!! どうしたらいんだよ、コレ絶対ヤバイぜ・・・・!!!」


 ――――――・・・・・・・・。


 パウゼが半泣きで電話口で喚けば、途端、向こう側が沈黙する。


「・・お、おい・・・!?」


 沈黙に耐えられずパウゼが呼びかけても、受話口からは何も聞こえない。

 そうこうしている内にも、抱えているアルヴィスは小刻みに震えながら弱々しく咳き込み、血を吐き続けている。
 口元から下、胸までが血で染まり真っ赤だ。

 本当にこのまま、死んでしまうかも知れない。


「おいっ、何とか言えよペタ!」


 焦燥に駆られ、パウゼは叫んだ。


「ペタ! おい、聞いてんのかよ!?」


 1秒の沈黙が、1時間にも感じられる。


「すげェ血ィ吐いてんだ、マジでヤバ・・・い・・」





 ―――――――・・・Be silent.(黙れ)




 その時。

 焦って叫ぶパウゼの耳に、短い言葉が届いた。


「・・・・・・・っ!?」


 動揺し真っ白になっていたパウゼの脳に鋭く突き刺さる、冷たい声。

 silent(沈黙)――――・・・quiet(静かに)よりも遙かに厳しい、呼吸をする音さえも気をつけろというような、きつい言い方だ。
そして、その声を発したのが誰なのかを悟った途端、パウゼは沸騰していた脳が嘘のように冷えていくのを感じた。


「・・・ファン・・トム様・・・!」


 パウゼにとって『神』とも崇める、至高の存在だ。

 彼に国内外問わず付き従い、『裏』の仕事を一手に引き受けているパウゼは職業柄、必然的に英語はマスターしている。
 しかし、『主』がパウゼに英語で話し掛けてくる機会は殆ど無かった。

 基本、『主』は日本語を気に入っており・・・母語であるかのような流暢さで、それを駆使しているから、どちらで話しても不便は無いのだろう。

 パウゼとしても、出来ればそうしてくれていた方が有り難い。
 話せるとは言っても、それはあくまで付け焼き刃であり、よく使う専門用語(要は、「バラす」とか「処理」だとかの隠語の類である)以外はアヤシイものだ。

 とにかく、『主』がパウゼに英語で何か命ずることは、滅多にない。
 話すとしたらそれは、・・・・・・『主』が酷く憤っていたり・・・要するに、パウゼ如きが何語を喋るのかなど関知していられないという、心に余裕が無い時に限られるのだ。


 ―――――――アルヴィスの傍で、騒ぐな。・・・動揺する。


 次いで告げられた言葉は日本語に戻っていたが、『主』の声質は硬いまま会話は続く。

 やはり血を吐くのは深刻な状況なのだと、その声音が示していた。


 ―――――――・・・上体起こして、頭が下がるようにアルヴィスの身体支えて。・・・まだ吐くようなら、そのまま吐かせちゃって。


「は・・・はいっ」


 パウゼは慌てて指示通り、抱いていたアルヴィスの頭を傾けて、頭部が下がるように抱え直す。

 その拍子にまたアルヴィスがゴホゴホと弱々しく咳き込み、少量の血を吐いた。
 『主』の指摘通り、まだ吐血は続くらしい。


 ――――――・・・アルヴィスの、意識はある? あるなら何かで隠して、・・・吐き出した血は見せないようにね。不安がるから。


「あ・・・いえ、多分・・・殆ど無いかと・・・」


 ―――――――・・・そう、じゃあそのままの体勢で呼吸だけ見てて。


「はい。・・あ、あのファントム様・・・・!?」


 次々と下される指示に頷いたものの、それから後はどうすれば良いのかという不安に駆られ。
 通話がこれで切れてしまうような雰囲気に、パウゼは思わずファントムを呼び止めてしまった。


 ―――――――・・・あと5分だ。


「・・・へ?」


 だが、次に聞こえてきたのは既に『主』の声では無く、ペタの低い声だった。


「5分って、・・・・」


 ―――――――5分経つ前に、分かるようその場にライトを置け。


「・・・・・・・・!」


 ―――――――5分でその場に到着する。


 その言葉に、パウゼの胸は一気に軽くなった。


「了解・・・!」


 短く答え、電話を切る。

 あと、5分。
 5分でパウゼは、この緊張感から解放される。

 もう少しで、この重圧から解き放たれるのだ。


「おい!? 何がどうなっとるねん!?」


 思わず脱力して、携帯片手にアルヴィスを抱えたままへたり込むパウゼだったが、そこへ間髪入れずナナシの怒鳴り声が響く。

 その血相を変えた様子は数分前の自分を見るようで、パウゼは複雑な心境になった。


「あの鬼さんに電話したかて、どうなるモンでも無いやろ!!? アルちゃんは、――――――」

「うるせーよ! いいからテメーは、コレ外に持ってって振り回してろ」


 ポケットからペン型のライト・・・超高輝度LEDを使用した防雨型強力タイプだ・・・を取り出し、ナナシに向かって放り投げる。

 パウゼは『主』の指示通り、アルヴィスの身体を支えていなければならない―――――緊急事態である、この際使えるモノは何だって使ってしまえという心づもりだ。

 ついでに言えば、こんな上半身裸な男をアルヴィスの傍で彷徨(うろつ)かせていては、『主』の機嫌を損ねかねない。
 懸念材料(けねんざいりょう)は、遠ざけておくに限るのだ。


「・・・・アァ!?」


 器用にライトをキャッチしたものの、ナナシが怪訝な顔をする。


「コレが何やっちゅーねん!?」


 ナナシは事の状況を把握していないのだから、当然だ。


「いいから外行って、空から見えるようにライト振れ!」


 だが説明している暇は無いから、パウゼは声を張り上げて尚も怒鳴った。


「―――――アルヴィス様助けてェと思うなら、役に立ちやがれ!!」

「!」


 その一言で、ナナシの表情が変わる。


「・・・外で、コレ振ればええんやな?」


 彼なりに何かを感じたのか、ライトを握って外の方へと走っていく。


「・・・・・・・・・・」


 ナナシの後ろ姿を見送りながら、パウゼは穴の外がボンヤリと明るくなってきているのに気がついた。


「・・・・ラッキー、日が昇り始めたぜ・・・」


 緊迫した状況で時間の経過が全く掴めなかったが、いつの間にか明け方だったらしい。

 今の季節が日の長い夏で、本当に助かった。
 この程度の明るさがあればペンライトの助けを借りて、難なくヘリは着陸出来る筈だ。

 『主』が地道に山登りをするなど想像が付かないし、恐らくヘリをチャーターして此処まで来るのだろうことは、パウゼにも容易に想像出来た。
 パウゼだって、こんな遠方にアルヴィスが来ると最初から知っていたら、迷うことなくヘリを使っていた所である。


「・・・・・助かった・・・!!」


 歓喜して、パウゼは思わず声を上げた。


「ゴホッ、・・・」


 アルヴィスが咳と共に血を吐き出す都度、肝を冷やしていたパウゼだが、少しだけ気持ちに余裕が出てくる。


「・・・・アルヴィス様・・・」


 そうしたら、今度は急にこの青年が可哀想になってきた。

 今までは症状のみに気を取られ、自分の責任問題でハラハラしていたが―――――――・・・肺を病んで血を吐くなんて、どれほど苦しいだろうと思い至ったのである。


「・・・・・・・・・・・」


 病気でも何でも無いが、パウゼも少量の血なら吐いたことがあった。

 単純な外傷―――――・・・仕事でヘマをして、胸部を強打して肺を傷つけたのだ。
 痛みは勿論、息が詰まって呼吸が出来なくて・・・・とにかく酷く苦しかった。

 痛くて息が止まるのとは違い、物理的に酸素が取り込めないのだ。
 我慢出来る、出来ないの問題じゃなかった。


「・・・・・・・・・・・」


 体力もあり、戦闘訓練も拷問への耐性訓練も一応積んでいる自分と違うこの青年には、今の状態はかなり辛いモノなのに違いない。

 しかも、こんな場所で――――――さぞかし、不安だっただろう。

 今、彼の意識が殆ど無いのは、ある意味良かったのかも知れない。
 次、目覚めた時には『主』の腕の中にいられる。


「・・・・・・・・・・・」


 ガクリと項垂れたままのアルヴィスの頭を、パウゼはそっと片手で撫でてやった。

 夜の海を思わせる深い青色がかった黒髪は、泥で無残に汚れ束になって固まっている。

 指先で梳こうとしても、パリパリになっていて上手くいかない。
 無理に梳けば、細い髪だから切れてしまいそうである。

 後ろ髪から覗くうなじも、同様に泥で薄汚れていた。
 それでも、泥が付着していない部分は抜けるように真っ白だ。

 何となく磨かれる前の、ダイヤの原石のようだとパウゼは思う。

 本当に美しい存在は、たとえ汚れていてもその美しさの片鱗が伺えるモノなのかも知れなかった。

 そしてキレイなモノは―――――殆ど例外なく、儚い。
 強さと美しさ、両方を兼ね備えた存在など、パウゼは『主』ただ1人しか知らない。


「・・・ゴホッ、・・・」

「・・・よしよし」


 咳き込むたびに苦しそうに細い身体を震わせるのが可哀想で。
 気付いたらパウゼは、幼い子を宥めるように声を掛け―――――頭を撫で続けていた。

 本当は、こんな行為は僭越(せんえつ)だと分かっている。
 してはならないことだと、知っている。


 けれど、・・・・・・・・周囲の空気を激しく叩くヘリコプターの轟音が洞窟内部に届くまで。

 パウゼはそうしてずっと、アルヴィスの頭を撫で続けていたのだった――――――。





 

 

 

 NEXT 77

++++++++++++++++++++
言い訳。
トム様出したかったんですけど、次回になっちゃいました!(笑)
ちなみにトム様、山付近までは既に到着済みではあったんですよ。
ただ夜間の上に悪天候でで視界が悪すぎた為、ジリジリと麓(ふもと)でパウゼからの連絡を待ってたんです☆
恐らく腹いせに、ギンタのことイジメながr(爆)