『君のためなら世界だって壊してあげる』




ACT 73 『真夏の雨−12−』



 

 



 日が落ち、完全に闇に閉ざされた洞窟の中で。

 勢いよく燃えるオレンジ色の炎にあたりながら――――――ナナシとアルヴィスは、不安を紛らわせるかのように他愛のない話を続けた。



 火を囲んでいるとはいえ辺りは真っ暗で、激しく降る雨と吹き荒れる風の音が不気味に洞窟内に木霊(こだま)して―――――・・・話でもしていなければ、気分が紛れない。

 何せ身体はズブ濡れのままで、しかも泥だらけ。
 更に言えば登山の準備などまるでしていなかったから、・・・食料と呼べるモノだって何1つ無い。

 せいぜい、水分補給にと持参していた500ミリのペットボトルがある程度だ。

 もちろん、着替えだって寒さをしのぐための防寒具だって持ってきてはいなかった。
 徐々に気温が下がってきた山中で、火を囲み辛うじて暖が取れているとはいえ・・・快適とは程遠い環境なのである。


 黙り込んでしまえば、今、自分たちが置かれている状況を嫌でも思い知らされて気持ちがどっぷりと沈んでしまう。

 喋り続けて居ないと、気が紛れないのだ。




「そんでな、・・・・?」


 話を続けようとして、ナナシは傍らの青年の身体が、小刻みに震えているのに気がつく。

 見れば、元から白い青年の顔は白いのを通り越して青白くなり、抱えた膝の前で組んだ両手も寒そうに血の気を失っていた。


「アルちゃん、寒いんか?」


 言いながらアルヴィスの頬に手を伸ばせば・・・・ナナシの指も冷え切っている筈なのに、それよりも冷たかった。


「・・・だい、・・・じょうぶ、・・」


 アルヴィスはそう応えてきたが、白くなった唇をカチカチ震わせながらでは全然説得力は無い。

 ただでさえ濡れた衣服を着たままでは体温が奪われて寒いのに、吐く息が白くなりそうな寒さになってきた。

 アルヴィスが、凍えるのも無理はないだろう。
 ナナシだって、火にあたりながらも手足が徐々に冷えていくのを感じている。

 ましてアルヴィスは、喘息持ちで身体が弱い―――――このままでは風邪を引かせて、発作が起きる可能性があった。
 こんな場所で発作など起こせば、下手をしたら命に関わるかも知れない。


「やっぱ、・・・濡れとるのに着替えんのは風邪引いてまうやんな・・・」


 立ち上がり、ナナシは何か無いかと自分の荷物を探った。

 いくら火に当たっていても、身に付けた衣服が濡れていては体温が奪われてしまう。
 着替えなど入っていないのは分かっていたが、何か代わりになるモノはと必死に中身を探ってみた。


「・・・おっ、・・・!?」


 手に触れたものを引っ張り上げて、ナナシは思わず弾んだ声を上げる。

 汗ふき用のスポーツタオルと、何かに使えるかと嵩張(かさば)ると思いながら持ってきた、大きめのバスタオルが入っていたのを忘れていたのだ。


「まあこれでも、濡れた服着とるよりマシやろ!」


 アルヴィスの方へ向き直り、バスタオルを手渡す。


「アルちゃん今着とるの脱いで、これ羽織り? これ1枚じゃ寒いやろけど、今のまんま濡れとるの着とるよりはマシや思うから・・・」

「・・・・・・・ナナシは・・・・?」


 アルヴィスはバスタオルを手にしたまま、心配そうにナナシを見上げてくる。


「ええから。アルちゃん羽織り?」

「でも、・・・」


 ナナシが即しても、アルヴィスは動こうとしない。
 自分だけ、とでも思って気が引けるのだろう。

 だが、アルヴィスの体調を案じるナナシとしては、遠慮などしなくていいからサッサと着替えて貰いたいところだ。

 火にさえあたっていれば、体力のあるナナシは引いたところでせいぜいが軽い風邪程度。

 けれど喘息を持っているアルヴィスは、風邪を引くこと自体が命取りになってしまう。


「自分は、こうするからええねん!」


 アルヴィスが動こうとしないので、仕方なくナナシは自分の濡れたTシャツを脱ぎ、両手でジャーッと水気を絞ってみせた。

 そして、自分の髪や顔を拭い、もう一度絞ってから傍らの石の上に広げて干す。
 それから、鞄からはみ出しているスポーツタオルを引っ張り出し、肩に掛ける。

 自分はこうするつもりだから大丈夫、の意思表示だ。


「・・・な? これで何とかしのげるし。その内、シャツも乾くやろしな」


 剥き出しになった上半身を、気温の下がり冷えた空気がスウッと撫でていくが、感じない振りをしてナナシはアルヴィスに笑いかける。


「・・・たいして寒ないよ? さっきよりはマシや」


 嘘では無い。

 寒くないとは言わないが、濡れて張り付くシャツの感触を我慢するよりは余程マシである。


「やからアルちゃんも、早よそれ脱いでタオル被り?」

「・・・・ありがとう・・・」


 ようやく納得したのか、アルヴィスが小さく頷いて着ていたパーカーを脱ぎ、中のTシャツに手を掛けた。

 アルヴィスがシャツの裾を持ち上げるにつれ、ナナシなら両手で掴めてしまいそうな細い腰が露わになり――――――その肌の白さに思わず、ナナシは上げ掛かった感嘆の声を、懸命に抑えた。


「・・・・ぅわ、・・」


 白い。

 揺らめく炎の灯りに照らされて妖しく光るその肌は、しなやかに美しくうねる、仄白(ほのじろ)い魚の腹のように艶(なま)めかしい。

 それはナナシの目に、まるで何か別な生き物のように映った。

 
「・・・・・・・・・」


 細い腰、形の良い臍(へそ)、肋(あばら)の形が肌の上から分かるほど肉付きの薄い胸板――――・・・アルヴィスがTシャツを脱ぐ様子を、無意識に目で追って。


「・・・・!?」


 そこでナナシは我に返った。







 ――――――・・・っアカンアカン!!

 自分、そないなつもりでアルちゃんに着替え勧めたんや無いやろーーー!!?







「・・・・・っ」


 好きな子と、こんな状況で2人きり。

 しかもその子が脱ぐ、なんて展開になったとしたら。

 ヤリたい盛りの健康な男子大学生であるナナシとしては、ついうっかり・・・・・今がそんな事態じゃないとは分かっていても反応してしまいそうになる――――――というか、見てしまうのは不可抗力だ。


「・・・・・・・・・・・」


 けれども流石に、今はそんな状況では無い。

 いや、今の状況でなくとも、手なんか出したら待っているのは『死』あるのみ。
 あの白い悪魔に、身内諸共(もろとも)滅ぼされてしまう。


「・・・・・・・・洒落にならへん!」


 ナナシは、慌てて顔ごとアルヴィスから視線を引っ剥(ぺ)がした。

 見ていたら、そう分かっていつつ変な気分になってしまいそうだからである。


「・・・・・ア・アルちゃん、そんタオル大きいし・・・濡れとるの全部、脱いだ方がエエ思うよ・・そん方が一片に干せて、乾くのも早ようなる思うし」


 変な意味や無いねん、これは効率の問題であって、決してエロい意味や無い!!

 そう内心で、自分におかしな言い訳をしながら、声を掛ける。


「えっ、・・ああ・・・そうだな。その方が、確かに乾くの早いよな・・・」

「そ、・・そうやろ!?」


 あくまで自然に、と心がけたつもりだが声が少し上擦っていて。
 彼に変に思われるのでは無いかとドキドキしたが、アルヴィスは全く頓着していないようで、言われた通りに脱いでいるようだった。

 立ち上がり、ジーンズを脱ぎ捨てている音もする。


「・・・・・・・・・・・・・」


 視界の隅に、白いモノや脱いでいる服がチラチラと映る度、寒いはずなのにナナシの体温が上昇する気がした。


「ほ・・ほら早ようタオル羽織って、火ぃ当たりや!」


 黙り込んでいると、余計に意識してしまいそうで。
 ナナシはアルヴィスがタオルを羽織ったのを視界の端で確認すると、強引に手首を掴んで火の側へ寄らせた。

 それでも極力、タオルからはみ出した白い足や肩越しに覗く鎖骨(さこつ)の辺りを見ないように気をつける。


「・・・・・・・・・・」


 それでようやく、落ち着いてアルヴィスの横顔を見て――――――やはり、彼の顔色が酷く悪いことを確信した。

 オレンジの炎に照らされているというのに、その肌は青ざめていて血の気がない。
 濡れた髪の毛先が頬に張り付き、長い睫毛を伏せがちにしてジッと炎を見つめるアルヴィスの横顔は、とてもキレイで扇情的でさえあるが・・・・とても気怠そうだった。


「・・・アルちゃん、もしかして・・・・」


 嫌な予感と共に、ナナシはアルヴィスの額へと手を伸ばす。


「・・・・・・熱(あつ)・・」


 予想通り、頬も鼻の頭も冷たいのに、額だけがナナシの指先に高い熱を伝えてくる。

 発熱しているのだ。


「・・・大丈夫だ、これくらい」


 アルヴィスは気丈に応えてくるが、大丈夫では無いだろう。

 手で測っただけだから正確なことは言えないが、微熱どころの体温では無い。

 一体いつから、具合悪いのを我慢していたのか。
 これだけ熱が高ければ、少なくとも先程抱き寄せた時にはもう、発熱していただろうに。


「無理したらあかんよ」


 我慢強いにも、程がある。

 すぐ言ってくれていたら、ナナシだってもっと早くバスタオルを見つけてアルヴィスに差し出すことだって出来たのだ。
 喘息を持っている人間が熱を出すのがどれだけ厄介なことなのか、ナナシは家で面倒を看ている子供で思い知らされている。

 看病しなければならない立場としては、我慢される方が余計に症状が悪化してヤキモキ心配する羽目となるから―――――――ヤメテ欲しい。


「こんだけ身体冷やしてもうたら、そりゃ熱も出るやんな・・・苦しない?」


 言いながら、ナナシはアルヴィスの身体が楽なように自分の方へと寄りかからせてやった。

 毛布も何も無く、枯れ葉と湿った土、ゴロゴロ転がっている石以外は何も無い場所である。
 寝かせてやれるような場所は無いから、これくらいしかしてやれない。


「・・・大丈夫・・・」


 額に当てたナナシの手が冷えていて気持ち良いらしく、アルヴィスは目を閉じて応えてきた。

 だが、気のせいではなくナナシの冷えた指先が温まってしまうほどに額は熱いし、薄く開いた唇から漏れる吐息は苦しげである。

 流石にバレてしまってからも虚勢(きょせい)を張る元気は無いらしく、アルヴィスは大人しくナナシの肩にもたれてきた。
 熱に慣れていないナナシのような者なら、すでに唸っていそうな状態だろう。

 解熱剤など持ってきてはいないし、どうするか――――――と、考えを巡らせて。


「アルちゃん、今の内にMDIしとこ? どこにあるん・・・?」


 せめて発作を起こさないように、予防のスプレー吸引をさせておかなければと気がついた。

 アルヴィスのように発作を起こす恐れのある者は、必ず携帯(けいたい)している筈なのである。


「・・・・・・・ない」


 だが、アルヴィスは首を横に振った。

 持っていないという意思表示か? ――――――そんな筈無いだろう、発作を起こす人間がMDI(定量噴霧式吸入器)を持たないなんて、自殺行為だ。


「無いワケないやろ? やってアルちゃん、いつも・・・」

「・・・無いんだ。パーカーの・・・ポケットに入れてた・・・けど、・・・2つとも・・・」


 けれど、擦(かす)れた声でアルヴィスが先程の言葉を肯定する。


「さっき、・・・使お・・・かと思ってポケット・・・見たら、・・入ってなかった・・・」


 ゴホッ、とナナシも聞き覚えがある嫌な音の咳をして、アルヴィスは無いと言い切った。


「・・・ほんなら、」

「多分・・・落ちた時にどっかでポケットから、――――――・・ゴホッゴホッ・・・・!!」


 ナナシが言いかけた言葉に頷いて、アルヴィスが口を開き・・・・皆まで言う前に盛大に咳き込み始める。


「アルちゃん!?」







 ――――――・・・アカン、発作や・・・!!







 慌ててアルヴィスを抱き寄せ、その華奢(きゃしゃ)な背中をさすってやりながらナナシは心中で天を仰ぐ。

 一番、起こって欲しく無いと思っていた事態だ。

 せめて薬でもあればと思うが、アルヴィスの言葉通りなら、昼間の滑落(かつらく)の時に落としてしまったのだろう。

 もしかすれば、落下した場所近くに転がっている可能性はあれど・・・もう日が暮れており探しに行くのは不可能だ。
 雨が止んでいないから、火種を何かで持ち運べるようにして松明(たいまつ)を作り、灯りにするワケにもいかない。

 真っ暗闇の中で、小さな吸入器を捜し出すのは無理である。


「・・・・・・・・・・・」


 発作なんて、こんな温かい布団も薬も・・・まして駆け込める病院も無い場所では、絶対に起こって欲しく無かった。

 そもそもこんな、身体に負担が掛かるだろう山登りをしてる時点で無茶だったのだ。

 だがそうは言っても起きてしまったものは、もうどうにもならない。
 何とかしなければと、気ばかり焦るが何も解決策は思いつかなかった。


「・・・・どないしょう・・・?」


 アルヴィスの背中越しに、ヒュウヒュウぜろぜろと独特の喘鳴が聞こえてきて。

 その苦しそうな呼吸に、ナナシは誰にともなく言葉を発する。
 勿論ここにはナナシとアルヴィスの2人しか居らず、答えが返ってくるなんて期待はしていなかった。

 だがその呟きに反応したのか、ナナシの袖口を掴んでいたアルヴィスの手にキュ、と力が籠められる。


「・・・ご、・・めん・・・少しすれば・・・落ち着く、と・・・」


 肩で息をして、咳き込むのを無理に我慢しているのだろう、時折身体をビクビクと震わせつつ、そう訴えてきた。


「アルちゃん・・・・」

「だいじょぶ、だ、・・・から、・・」


 短い言葉を発するのですら、辛そうだ。

 アルヴィスが息をするたびに、ヒューヒューと苦しそうな異音がして、聞いているナナシの方が息苦しい気分になってくる。


「喋らんでエエよ、・・・苦しいやろ」

「・・・、・・・・・」


 宥めるように青年の頭を撫でてやれば、アルヴィスが口元を綻(ほころ)ばせて声もなく笑うのが分かった。

 ヒュヒュ、と苦しげな息がアルヴィスの口から漏れ出る。


「・・・・・・・・・・」


 喘息は、気管支が腫れて空気の通り道が狭くなるらしい。

 首をぎゅうっと締めつけられながら、呼吸をしているようなものだろうか――――――想像しただけでも苦しそうだ。

 喘息の発作は、見ているだけでも辛い。

 咳・咳・咳・・・・何度も何度も、息継ぎが出来ないほどの咳き込み続けて・・・最後には咳き込む力も無くなって、弱々しい呼吸を繰り返すようになって。
 けれど時折、思い出したように出る咳が、すっかり衰弱した身体から、更になけなしの体力を奪っていく。

 当然、ろくに睡眠も取れず食事も摂れないまま、苦しさに耐えながらやっと呼吸をしている状態になるので、見ている側も本当に辛い。


「・・・・・・・・・・・・」


 アルヴィスがこんな細い身体で、そんな苦しさに耐えているのかと思うとナナシは可哀想で堪らなくなった。

 ナナシが面倒を看ている子も時たま軽い発作を起こしているが、その時はやはり死んでしまうんじゃないかとハラハラするくらい、苦しそうにしている。

 今のアルヴィスも、酷く苦しそうだ。
 単なる発作では無く、発熱があるから苦しさは余計だろう。

 薬があれば、多少は症状を和らげることが出来るのに――――――。


「アルちゃん・・・」


 そんなアルヴィスを見て、ナナシは自分が不安になっている場合じゃないと己に言い聞かせた。

 一番不安なのは、実際に発作を起こしているアルヴィス本人。
 ナナシが、動揺している場合ではない。


「・・・・無理せんでエエよ。アルちゃんは自分のこと気にせんと、アルちゃんが一番楽や思うようにしとったらエエのや・・・」


 宥めるように、バスタオル越しにアルヴィスの細い肩を抱き優しく言い含める。

 身体が辛いのだから、せめて精神面だけでも楽にしておいてやりたかった。
 発作で苦しんでいるアルヴィスに、迷惑を掛けるとか、ナナシに対して気遣うことなんてさせたくない。


「も少し、身体寝かせた方がええ? それとも、もうチョイ起こしとった方が楽か・・・?」

「・・・これでいい・・・」


 発作を起こしている喘息患者は、身体を起こしていた方が呼吸が楽になるらしいことは、面倒を看ている子のお陰で知っていた。

 アルヴィスがどの程度の喘息持ちなのかは知らないが、予防用のMDIしか持っていないナナシの家に居る子供より、軽いということは無いだろう。
 常に、発作を止めるための緊急用のMDIを携帯しているということは、程度もそれなりなのだろうということは推して計れる。

 真面目な彼が、時折大学を休んでいるのを考えれば・・・推測は当たらずも遠からずと言った所だろう・・・アルヴィス自身は発作で休んだなどと、決して口外してはいないけれど。


「ご・・めん、・・・迷惑・・・かけて、・・・・」

「ええから、黙っとき。喋ると咳出るやろ?」

「・・・でも、・・・」

「頼むから、黙っといて? 咳き込んどるアルちゃん、可哀想で見てられんから・・・自分の為に、黙っといて」

「・・・・・・・・・」


 やはり迷惑を掛けたと、気に病んでいる様子らしいアルヴィスに優しく笑いかけて。

 ナナシは、言葉を続ける。


「迷惑や無いよ。・・・そら、アルちゃんがこない状態にならんで、元気で笑うてるの見るんが1番やけど」

「・・・・・・・・・・」

「こんな風に苦しんどるアルちゃんには――――・・・何でも、してあげたなる」


 見つめれば、熱のせいか潤んでいる大きな青い瞳が間近にあった。

 本当に、いつ見ても溜息が出るような美しい青色だ。
 どうしたらこんな、形良い切れ込みを入れて彫り上げることが出来るだろうかと感心したくなるような、くっきりとした二重の眼窩(がんか)に填め込まれた2つの青。

 密に生えた長い睫毛に縁取られるそれは、いつだって凄まじい力でナナシの心を惹き付ける。


「少しでもアルちゃんの役に立てんなら、嬉しいねん。・・・・ホンマやで?」

「・・・・・・・・、」


 ナナシの言葉に、アルヴィスが表情を和らげる。

 苦しそうに肩で息をしながらも、笑顔を見せてくれた。


「アルちゃん・・」


 その笑顔を目にして、ナナシの胸がきゅうっと締め付けられるように切なくなる。

 苦しいだろうに、そうやって笑ってくれるアルヴィスがけなげで、可愛かった。
 可愛くて愛しくて、・・・・何としてもその苦しさから救ってやりたいと思った。

 けれども今、ナナシにはその手段が無いのである。

 薬も無ければ、栄養を取らせるための食べ物も温かな寝場所も・・・満足な衣服すら無い。


「・・・大丈夫やからな。外が明るうなり次第、自分がアルちゃんおぶって山降りるし・・・!」


 ナナシが今できるのは、少しでも身体を密着させてアルヴィスの身体を冷やさないようにすることと、夜が明け次第アルヴィスを背負って下山することくらいである。


「ちょっとの我慢や! ちょっとだけ、自分とここに居ってな・・・?」


 後はせいぜい、発作で不安になっているだろうアルヴィスの気持ちを、励ましてやること――――――――その程度しか、やれることは無い。


「大丈夫やで・・・・?」


 腕の中の細い身体を抱き締め、アルヴィスの濡れた髪を撫でながら。

 ナナシは何度も何度も、・・・アルヴィスと自分にそう呟き続けるのだった・・・・。









































「・・・・ねえ、もう帰っていいかな?」


 黒革張りの1人掛けソファに腰掛けて、手にした携帯電話を弄(もてあそ)びながら。

 銀髪の青年は、重厚なテーブルを挟んで向かい側に座っている男にそう問いかけた。


「ちょっと大切な用事出来ちゃったから、もう帰りたいんだけど」


 青年は二十代前半といった年頃であり、男の方は少なくとも、厳つい顔に刻まれたシワから還暦(かんれき)は越えているだろうと思われる。

 その年齢差にしては、酷くぞんざいな口調だった。


「夕飯までには帰る予定だったし、そろそろお腹も空いたし・・・・帰っていい?」

「食事なら、ここで取ればいいだろう」

「んー、でも僕、もう帰りたいんだよねえ。帰っていいよね?」


 けれど、それが許される雰囲気をこの青年は持っている。
 サラサラとした銀髪に、アメシストを思わせる蠱惑(こわく)的な光を湛えた瞳、白皙の肌を持つ青年は悪夢のように美しく、――――――その漂わせる空気は、何者をも凌駕(りょうが)して他者を圧倒するような・・・支配者のものだ。

 青年より遙かに年配で、威厳に満ちた顔立ちをした男が相手であっても、その立場は変わらない。


「まだ話は終わっておらん」

「えーでも、これ以上話してても堂々巡りになるだけだし」


 重々しく問いかけに首を振られても、青年は何処吹く風というように小首を傾げただけだった。

 並の者なら、口答えなども出来ずに引き下がるだろう渋面を男が浮かべているのに、である。


「何度言われても、僕はアンタの病院に移る気は無いしまだ学校辞めるつもりは無いよ。それに来月に開くって言う、演奏会にも出るつもり無いから。・・・ねえそろそろ帰っていい?」

「ファントム!」


 手にした携帯を弄(いじ)くり回しながら言われたセリフに、いい加減、我慢の限界を超えたのか男が興奮した口調で青年の名を呼び―――――目の前のテーブルにダンッ!と拳を打ち付けた。


「なに?」


 相変わらず、青年・・・ファントムは動じない。


「我が儘は大概にしろ。それにいつになったら口調を改めるんだ・・・身分をわきまえろ、身分を!! 私はお前の祖父だぞ? 少しは敬(うやま)ったらどうなんだ!!!」

「・・・・・・・・・・」

「お前なら、学校など今更行かなくともこっちで免許など簡単に取れるだろう! いつまでも学生気分で怠けてるんじゃない!! さっさとウチの大学病院で能力を示せ!!!」

「・・・・・・・・・・・」

「それに、ピアノを披露するのの何が不満だというんだ!? お前はウィーンのコンクールで優勝したこともあるんだぞ? 我が家にあるピアノは1900年代の※スタインウェイ(※神々の楽器と湛えられる、ピアノメーカー御三家の一種)だ・・何の不満がある?!」


 それが男・・・彼の祖父に、更なる怒りの火を注ぐ羽目となったらしく、恫喝(どうかつ)は止まらない。

 普通の人間なら、すくみ上がってしまう程の剣幕だ。


「Sorry(ごめんね?)」


 しかし青年・・・ファントムはそんな自分の祖父に向かって柔らかく笑んだだけである。


「ごめんなさい、お祖父様。やっぱり日本語って難しくて・・・敬語が上手く使えないんだよね。ワザとじゃないんだ・・・ホントだよ?」

「・・・・・・・・・・・・」

「ほら、言葉ってすぐ誤解されちゃうから。間違った言葉使って、お祖父様に真意が伝わらなかったら困るでしょ・・・?」


 にっこり笑って言うその姿は、邪気の無い天使そのものだ。


「それに僕の今の年齢じゃ、この国では一人前の医師と思われないってのはお祖父様だって知ってることでしょう。A国戻れば、ちゃんと一介の医師として論文とか発表してるんだからいいじゃないか」

「・・・・だったら、向こうへ戻ったらどうなんだ? それならば此方に帰ってきた時にも箔(はく)が付くし、無駄に時間を過ごすことはない」

「医師免許取ったら、行動は問わないって僕に言ったの・・・お祖父様だったよね。だったら、僕の好きにさせてよ」

「・・・・・・・・・・・」

「ピアノは、全然弾いてないから無理。コンクール出たのなんて8歳の時だし、・・・それで満足しちゃったからもう弾けないよ」

「ならば、・・・」

「ああ、ヴァイオリンも同じだから。今、全然弾いてないから無理だよ。スタインウェイとか※グァルネリ(※世間的評価の高いヴァイオリン制作者一族の名前で呼ばれるヴァイオリン。デル・ジェスというモデルが一番値打ちがある)だとかの問題じゃなくて」


 まあ、デル・ジェス買って貰ったのは小さいころ嬉しかったけどね・・・激昂する祖父を余所に、優雅に足を組み直しながらファントムは流暢に言葉を繰る。

 その様子からはとても、日本語に不自由しているようには見えない。


「だからさ、無理だよお祖父様。いくら昔にコンクールで優勝したとはいってもジュニアの時だし・・・今度招くっていう、音楽家の人のお眼鏡に適うようなの演奏(でき)ないから」

「――――――来るのは、そのコンクールでお前を審査し評価した方々だ」

「じゃあ余計。昔のままにしといてあげようよ・・・ガッカリさせるの可哀想だから」

「ファントム、・・・・・・・・」


 相変わらず携帯を弄り、のらりくらりと言葉を交わす孫に痺れを切らし、男がもう一度叱りつけようと喉に力を込めたその時。


「――――――」


 不意に、周囲の温度が下がった。


「・・・・・・・・・・」


 不穏な空気に男が青年を見れば、今まで微笑を貼り付けていた孫の美しい顔から、表情が消え失せている。

 彼はただじっと、携帯の画面を食い入るように見つめていた。


「・・・ファントム?」

「・・・・・・・・・・・」


 孫の名を呼ぶも、青年は微動だにしない。


「おい、どうしたと言うんだ―――――」

「・・・Get off my back.(うるさい)」


 尚も問いかければ、青年は画面を見つめたまま小声で呟く。

 だがその意味までは、祖父である男の耳には伝わらなかった。


「何だと? いい加減、携帯を離しなさい・・・一体何だと言うんだ? 話はまだ終わってな・・・」


 言いながら、男が孫の携帯に手を伸ばそうとすると、ようやくファントムが祖父を見る。


「――――・・・・っ・・・!?」


 心臓が凍り付いてしまうような、冷たく鋭い視線だった。

 視線を合わせただけで、血が凍り身体が冷え切っていくような・・・・剥き出しの心臓を氷で撫でられているような冷たさが、男を襲う。


「Take a hike.(あっちへ行け)」

「・・・・・・・・・」


 短く言われた英語に、今度は意味が伝わったが身体が動かない。

 その様子を一瞥(いちべつ)し、青年は再び携帯画面を凝視し始めた。


「・・・・・・・・・・」


 視線を外されると、今言われた言葉が、本当にその意味だったのか分からなくなる。
 何せ男に対して、青年がそんな暴言を・・・・刃向かったりしたことなど、一度たりとも無かったのである。

 けれど、おもむろにソファから立ち上がった孫息子は、笑みを浮かべてはいたが纏(まと)う温度は冷たいままであった。


「―――――残念だけど、話はここまでだ。僕、帰らないと」


 さきほどと似たような言葉を繰り返しつつ、有無を言わさぬ強さがある。


「またね、お祖父様。このクダラナイ話が長引いたせいで、取り返し付かない事になったら・・・絶対お礼するから」


 そう言って、立ち去る孫の笑みは。

 お礼、の意味を間違って覚えているんじゃないかと思わせるくらい、物騒極まりない凶悪さを感じさせるものであった――――――――――。








 

 

 

 NEXT 74

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言い訳。
ようやく、新展開を迎えられました(笑)
いやー長かった!
実はナナシとアルヴィスの会話、3回くらい書き直してるんです。
で、長くなるしあんまり話が逸れるのもなーと思い、大分カットしてみました(笑)
なので今回、随分いっぱい書いた気がするんですが、出来上がったの見たらそれ程でも無い・・・かな?(爆)
いや充分長ったらしいですね、スミマセン^^;
それで、アルヴィスの発作の場面だけにしようかと思ったんですけど、トム様がなかなか書けないのでチョットご登場願ってみました☆
文中で敬語が使えない云々言ってますが、勿論ホントは分かってます(爆)
お爺さんのことをアンタ呼ばわりしてるのも、ため口利いてるのも、確信犯です。
最近ずっとナナアル風味な部分しか書いてなかったので、トム様書くのがすっごく新鮮で楽でした・・・(笑)
やっぱトム様、書きやすいです・・・!