『君のためなら世界だって壊してあげる』 ACT 38 『交差した道の行方 −31−』 「・・・・大丈夫だよ。僕が君を守ってあげるから・・・」 腕の中で身を強張らせる青年を、強く抱きしめて。 ファントムは何度も、優しく繰り返した。 「・・・・・・・・っ、・・」 必死な様子で自分にしがみつき、身を震わせる青年に。 ファントムは、胸がきつく締め付けられる想いだった。 「怖くないよ、・・・・今アルヴィス君を抱き締めてるのは僕だから・・・・」 スルスルとした手触りが心地よい、蒼味がかった黒髪を撫でながら。 言い聞かせるように、囁く。 「――――――ちゃんと目を開けて、僕を見て? アルヴィス君が怖いモノなんて、何処にもいないでしょう・・・・?」 青年を組み敷いていた体勢から、アルヴィスを抱いたまま位置を変え。 横に隣り合うような状態になりながら、ファントムは青年に言葉を続けた。 「・・・ね。アルヴィス君の目に映ってるのは、僕だけだよ」 アルヴィスの、最高品質のサファイアのようなコーンフラワー・ブルー――矢車菊の花の青―――――にも例えられるだろう一対の瞳を見つめて、同じ意味の言葉を繰り返してやる。 出来の良いビスクドールのような顔立ちの青年は、幼い頃からまるで印象が変わっていない。 つんつんと立ち上がった、コシの強い黒絹のような髪も。 滑らかで北方の人種なのかと思うような、透き通る白さの肌も。 両手で包み込んでしまえる、小さな卵形の輪郭も。 少しつり上がり気味で、猫めいた印象を与える青い瞳も。 通った鼻筋や小振りで形良い唇も、全て。 全体的に華奢で少女と見紛うような可憐な姿でありながら、理想的に並んだ顔のパーツのせいなのか何なのか、――――――女々しさなど一切感じさせない凛とした印象を与える所も、全部。 何も、あの頃と変わってはいない。 ―――――――変わっては、いないのに。 「・・・・・・・・・・・」 けれど今、ファントムの腕の中で。 その長い睫の下から不安そうに揺らぐ青い瞳を覗かせて、此方を見ている青年は深い傷を負ってしまっている。 大切に大切に、想ってきた。 ファントムにとって、唯一この世界で価値あるモノ。 傷つけないように。 誰にも奪われないように。 自分だけを見て。 自分の声しか聞かせないで。 自分の名前しか、呼ばないように。 出来うる事なら、両手で囲って。 誰にも見せず触れさせず。 自分と彼しか居ない空間を作って、アルヴィスを閉じこめて置きたかった。 それなのに。 ファントムの、目が届かぬ場所で。 ―――――――大切なモノが傷つけられてしまった。 「・・・・・・・・大丈夫だよ。アルヴィス君が怖いものは、僕が消してあげるからね」 その場限りの気休めの言葉などでは決して無く、本心から。 ファントムは、自分にしがみつく青年を見つめ返して優しく言った。 解離性健忘(かいりせいけんぼう)。 ――――――健忘症(記憶障害。数秒前や数秒前から数日前までの出来事、もしくはもっと以前の出来事を部分的、または完全に思い出せなくなる症状のこと)の一種で、身体的なものではなく、あくまで精神的なものが原因であり精神に耐え難いダメージを受けた場合に、発症する事が多い。 アルヴィスは幼少時に受けた性的暴行の為に脳に激しいストレスを感じ、自我の崩壊を防ぐためにその部分の記憶を失ってしまっているのだ。 だが自分で思い出せなくなっているだけで、そのおぞましい記憶は脳にしっかりと刻み込まれている。 だから、何らかのきっかけで不意にその記憶が顔を覗かせ・・・・アルヴィスを忽(たちま)ちの内に恐慌状態に陥らせてしまうのだ。 欠落した記憶が不意に蘇るのは、当時に感じただろう強い不安と恐怖を呼び起こし、それは今、決して体調が良いとは言えないアルヴィスにとって命取りになりかねない事だった。 薬物を使って、剥がれ掛けている過去の記憶に再びフタをして無かった事にするのは可能だ。 ファントムとしても、そんな万死に値するような卑劣な輩の記憶など、アルヴィスには知らないままで居て欲しい。 出来れば、そんな記憶などは知らないまま。 無かった事にしてやりたい。 けれども、・・・・・封印したところでアルヴィスの脳には、その記憶がしっかりと刻まれている。 いつ何時、また暴かれないとも限らないのだ。 欠落した記憶。 それは、本人が普段の意識との関連性を見出せない故に、思い出す以上の計り知れないダメージを精神に与えかねなかった。 知らないのに、覚えている記憶。 あり得ないと、否定しているのに実感を伴い再現される恐ろしい記憶。 脳は混乱し、怯え、強い不安を覚えて―――――――やがては狂ってしまいかねない。 アルヴィスの記憶を取り戻し、彼の中にある記憶の空白を埋めてやり・・・・・尚かつその上でもう大丈夫なのだと、何の心配もいらないのだと安心感を与えてやるのが最良の方法なのである―――――――――アルヴィスが、自我崩壊を起こさないようにするためには。 「・・・・大丈夫」 ファントムは、腕の中で震える青年をぎゅっと抱き締め。 安心させるように華奢な首の後ろを撫でながら、そっと言った。 「アルヴィス君が怖い思いしたのは、ずっとずっと昔だよ? ・・・今じゃない」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・ダンナさんの所に引き取られる前――――――・・・少しだけ、怖いおじさんの所に預けられたことがあったよね・・・・・?」 「!」 黙り込んだまま。 不安げな揺れる瞳で自分を見ていたアルヴィスが、ファントムの言葉に大きく目を見開く。 その様子を注意深く見ながら、ファントムは努めて穏やかな口調で言葉を続けた。 「・・・目のギョロリとした、瞳孔・・・黒目がやけに小さい、・・・・怖いおじさん。夏の、とても暑かった日に、アルヴィス君はそのおじさんに―――――――」 「・・・・・・・っ、・・・・言うな・・・!!」 ファントムの言葉に、アルヴィスの身体がはっきりと分かる程強ばり。 全てを否定するかのように、堅い表情で首をゆっくりと何度も横に振った。 「・・・聞きたくない・・・・!! ・・・そんなの、・・・知らない・・・・・っ、・・・!!!」 しがみついていた手を離し、両耳を覆って叫んでくる。 顔はすっかりと青ざめ、身体は小刻みにぶるぶる震えていた。 「怖かったよね・・・辛かったんだよね・・・・・・」 その縮こまった身体を、ファントムはますます強く抱き締めてやる。 「でもね、・・・・・それは事実なんだ。夢なんかじゃなくて、・・・・・辛いけれど、アルヴィス君の過去に起こった、事実なんだよ」 「―――――――・・・っ、・・・!!」 腕の中の身体が、びくんと跳ねた。 肩で息をしている青年の首筋を支える方の手で、さりげなく脈を測りながら。 ファントムは細心の注意を払って、彼の中にある記憶の空白部分を埋めていく。 「・・・その夏の暑い日。アルヴィス君は、おじさんに、・・・怖いことされたんだ。身体触られて、痛いことされちゃったんだよね」 「・・・・う・・・・ぅ・・・・やめて、・・・聞きたく・・・・ない、・・・!!」 アルヴィスから弱々しく拒絶の言葉が漏れるが、ここでやめてやる訳にはいかなかった。 「でもダンナさんのお友達の、アランさんが来て。アルヴィス君はそれで助かったんだよ」 「・・・・・・・・もう、・・・」 お願いだからやめて。 そうアルヴィスの目が訴えているのに気付きながら、ファントムはその願いを無視した。 「――――――怖い思いして、目が覚めたら。・・・・そこにもう怖いおじさんは居なかったよね? アランさんが居てくれたんじゃないかな・・・・・・・?」 ぶるぶる震える華奢な背中を撫で、ファントムは優しく言葉を続ける。 「・・・ね、思い出してアルヴィス君。それからすぐ君はダンナさんの所に預けられたんだけど・・・・・・・・それは君がいくつの時だった・・・・・?」 「・・・・・・・・・・・」 アルヴィスは、答えない。 「ちゃんと言えないと、僕はいつまでもアルヴィス君に辛いお話、しないといけなくなるよ・・・?」 だがファントムは、辛抱強く質問を続けた。 アルヴィス自身が、切り離されてしまった記憶を、自分の過去なのだと関連づけられなければ、単に心の傷を広げただけになってしまう。 「僕に教えて? 小学校何年生の時だったの・・・・?」 「・・・・・さん・・・ねんせい」 「3年生の時だったんだね。誰がダンナさんのお家、連れて行ってくれたのかな・・・?」 「・・・・・・・アランさん・・・・」 ファントムの質問に、観念したのかアルヴィスが目に涙を溜めながら辛そうに答える。 見目の良いキレイな顔立ちなだけに、酷く加虐心が煽られる可憐な泣き顔だが、事情が事情なだけにファントムの胸も痛んだ。 思わず質問するのをやめて、頬ずりしながら頭を撫で慰めてやりたくなる想いに駆られるのを必死に堪え。 ファントムは、アルヴィスに問い続けた。 「そのアランさんに逢ったのは、何処だったのかな? ・・・・どうしてアルヴィス君は、アランさんに連れられてダンナさんの所行ったんだろう・・・・?」 「・・・・・・・・・・・そ・・・れは、・・・・・・」 アルヴィスの顔が、ますます青ざめる。 呼吸が激しく乱れ、耳元を覆った両手の指が爪を頭皮に食い込ませるように鉤(かぎ)の手状に曲がった。 「・・・・おじさんが、・・・・おれに、・・・・・おれを・・・・・・っ、・・・・・!!!」 震えていた身体が、更に激しく瘧(おこり)のようにガタガタと震え出す。 あまりの震えに、ガチガチと歯の根が鳴る音がした。 脳に掛かる過大なストレスのせいで、一時的に軽い痙攣(けいれん)性の発作を起こしているかもしれない。 「・・・・ごめんね、思い出すの怖かったよね・・・・でも昔のことだよ。今じゃないから、大丈夫・・・・・」 宥めるように、ファントムは何度もアルヴィスの背をさすってやる。 「偉かったよ。良く、思い出したね・・・・・もう、大丈夫だよアルヴィス君・・・・」 痙攣を起こしている時は、身体を横向きにしてやったり衣服をゆるめてやったりすることが必要だが、今はちょうど体制的に横で向き合い衣服もゆるめられている状態なので問題は無い。 重度の痙攣でも滅多に舌を噛んでしまうケースは少ないので、口に何かを咥えさせることもしなかった。 かえって下手に口にモノを咥えさせると、窒息したり顎の筋肉をおかしくする恐れがあるからだ。 「大丈夫だよ。・・・今、アルヴィス君の傍には僕しか居ない。怖いおじさんは、もう二度とアルヴィス君が見ることはあり得ないから、平気だよ・・・・・」 震える身体を抱き締め、何度もなんども、言い聞かせる。 「僕が守ってあげる。アルヴィス君にはもう怖いことなんか、絶対起こらないよ僕が約束するから」 「・・・・・・・・・・・」 「僕がアルヴィス君の怖いモノ、全部壊してあげるからね・・・」 「・・・・・・・・ふぁんとむ・・・」 腕の中で、アルヴィスがようやく顔を上げた。 涙に濡れた、深い青の瞳でファントムを見つめてくる。 「ごめんね、・・・君の傍から離れてて。僕が傍にいたら、君にそんな怖い想い決してさせなかったのに」 本心からの言葉を、アルヴィスに告げた。 悔やんでも悔やみきれない―――――――それは、この事こそを言うのだと、ハッキリ思い知った気分だった。 傍にいたら。 決して、こんな目になど遭わせはしなかった。 引き取り手が無く親戚中をたらい回しにされた挙げ句、愚かでどうしようもないゴミみたいな輩の慰みものにされるなど。 予測は付いた筈だった。 当時アルヴィスの面倒を見ていた親類達の態度や、彼の幼少時からのずば抜けた容姿などを考えれば―――――――この悲劇は容易に想像ついた筈だったのに。 何らかの手を打つべきだったのだ。 当時10歳だった己の、浅はかさが腹立たしい。 「・・・ごめんね・・・・・」 抱き締めて繰り返し謝りながらも、アルヴィスに無理を強いたという男への憎悪に胸が焦げ付く。 本当に、――――――どうしてやろうか。 手と足の爪、全部引き抜いて。 体中の皮という皮を全て、はぎ取って。 表皮を失い、肉や神経が露出した赤剥けの身体に塩を塗り込んで。 失血死してしまわないように、調整しながら体中を切り刻んでやろうか。 急所を外して、内蔵を少しずつ引っ張り出してやるのもいいし。 神経が発達してる指先部分からちょっとずつ、切り取っていくのもいい。 舌や歯も、ペンチで引っこ抜いてやればいいだろう。 眼球と鼓膜は、最後まで傷つけない。 恐怖は身体だけじゃなく、視覚と聴覚でも味わって欲しいから。 その代わり瞼を引き剥がして、耳朶は切り刻んでやるけれど。 ―――――――最後は、アルヴィスの苦しみの報復として肛門部から串刺しにしてやるのがいいだろうか。 尻から内臓ごと突き刺して、口から杭を出させてやろう。 体内で縦に裂け、顎が外れて太い杭が飛び出したら・・・口も頬も耳まで裂けて。 裂けた皮膚が、ダラリと垂れ下がる。 それはさぞかし、見物になるに違いない・・・・・・・・・・。 「・・・ふぁんとむ、・・・おれ・・・・」 ファントムがアルヴィスを犯しかけた男への憎悪に、報復措置を考え。 思わず意識を埋没しかけた、その時。 不安げな、弱々しい声がファントムの耳に届いた。 瞬時に意識を取り戻し、ファントムは慌てて一切の感情が消えていた自分の顔に、笑みを浮かべる。 「・・・なあに、アルヴィス君?」 優しく名を呼べば。 先ほどより震えは収まり、痙攣状態からは抜け出したように見えるが、まだまだ青ざめた顔で――――――アルヴィスは躊躇いがちに口を開いた。 「・・・・おれ、・・・・ここにいて、いいのか・・・・・?」 酷く頼りなげな、口調だった。 雨に濡れ寒さに震えながら、濡れた自分が近寄れば叱られる―――――そんなことを考えてビクついている子猫のような顔で、アルヴィスはファントムを見つめる。 「・・おれ、・・・・汚い。・・・・すごいこと、・・・・され・・・たから、・・・・」 思い出すのも恐ろしいのだろう、また激しく身体を震わせ潤んでいた瞳から涙をこぼしながら、訴えてくる。 「・・・・あんな、さわられ・・・て。・・・おれ、・・・すごくよごれ、・・・・!!」 とても怖いのだろうに縋り付いてくることもせず、アルヴィスはファントムの腕の中で身を縮めていた。 ―――――――縋りたいだろうに、自分から触れてはいけない気がしているのだ。 あんな男に、乱暴されかけたのを思い出したから。 そんな手に触れられた自分が、汚いと思って。 本当に、――――――なんてキレイな存在なんだろう。 なんてキレイな心を持っているんだろう。 アルヴィスは、少しも何も、穢れてなどいない。 キレイな彼に触れるなら、キレイでいなくては。 ―――――――あんな虫けらに、自ら手を下すのはやめなければ。 汚れた手では、アルヴィスに触れられない。 直接手を触れず、地獄に落とす方法を考えないと・・・・・・・・・・・・・・。 「・・・・・・・・汚くない」 心の奥底で、そんな剣呑な事を考えつつ。 ファントムは、アルヴィスを抱く腕にますます力を込めた。 「アルヴィスはとても、・・・キレイだよ。どこも汚れてなんかいない。アルヴィスはキレイなままだよ・・・・僕の大好きな、アルヴィスのまんま。どこも、汚れてなんかいない・・・」 優しく髪を梳き、背を撫でて―――――――安心させるように顔中にキスをする。 「アルヴィスの身体で、僕が汚いなんて思う場所、どこにも無いよ? 体中、全てに僕からのキスをあげたいくらいなんだ」 「・・・・・・・・・・・・でも、」 前髪を掻き上げて、白い額にキスを。 涙の雫がついた、長い睫に口付けを。 赤くなった鼻先に、濡れた頬に。 寝乱れてしまった、黒髪にも。 細い顎先や、嗚咽に震える喉もとにも。 泣いて赤く染まってしまった、耳朶にも――――――キスを繰り返す。 最後に軽く、唇にキスをして。 ファントムは、睫が触れ合うような距離で笑ってみせた。 「ホントだよ? 僕はアルヴィスの身体には全部キスしたいくらい大好きなんだ」 「・・・・・・・・・・・」 幾分表情は和らいだが、まだまだ不安そうな年下の幼なじみを、ファントムは甘く見つめ苦笑する。 「・・・我慢する自信無いから、証明するのはまた後日――――――といきたい所なんだけど」 そう言いながら、ファントムは身体を起こし再びアルヴィスを組み敷くような体勢を取った。 そしてまた、鼻先にちゅっとキスをして。 人形みたいに整った、アルヴィスの小さな顔を見つめ口を開く。 「―――――――今、証明していい?」 「・・・・・・・・・・?」 ファントムの言葉の意味が良く掴めなかったのだろう、アルヴィスの顔が不安の色を浮かべながらも困惑した表情になった。 そんな青年を、ファントムは悪戯っぽく見返した。 「アルヴィスの身体は、どこも汚くなんかないって証明してあげるよ」 目を細め、耳元で聞くと腰が砕けそうになる・・・などと評判らしい甘い声で宣言をする。 「―――――――僕がアルヴィスの身体ぜんぶに、キスをあげる」 そうしたら、信じてくれるよね? ・・・・・ファントムはそう言って、愛しくて堪らない存在を見下ろした――――――。
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