『君のためなら世界だって壊してあげる』




ACT 26 『交差した道の行方 −19−』













 ベッド脇に備え付けられた椅子に腰を掛け、一礼して立ち去る男の姿を見ようともせず。
 ファントムはそっと意識の無い青年の手を、両手で包み込むようにして握った。


「・・・・アルヴィス・・・・」


 呼びかけの声にも手を握った感触にも、青年はピクリとも反応せず、眠ったままだ。

 伏せられていると余計に強調される、長く濃い睫毛。
 意志の強さを表すような、吊り上がり気味の眉。
 スッキリと通った高い鼻梁―――――・・・・肉付きと皮膚の薄さを感じさせる、人形みたいに小造りで繊細に整った顔の青年は、たとえ一番魅力を伝えるだろう印象的な瞳が閉ざされていてさえ、キレイだった。

 だが、その薄く形良い唇には、人工呼吸器が接続された太い管が差し込まれ、痛々しくテープで固定されており。
 患者衣の襟元を緩くはだけられ、その胸元からは心電図の電極コードが覗いている状況だ。
 しかも、剥き出しになった白い腕には、バイタルチェック用の自動計測メーターや点滴のチューブが繋がれ―――――─左手首に真っ白な包帯が巻かれている。

 今の彼は、意識もなく機械によって呼吸をしているだけの、生きた人形のような状態なのだ。


「・・・・・・・アルヴィス君・・・・・」


 もう一度、静かに呼びかけて。

 ファントムは包み込むように握っていたアルヴィスの手から指を離して、視線を彼の細い左手首へと向けた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 手首に巻かれた伸縮性のある包帯をそっと解いてガーゼを捲れば、糸で縫合せずに半透明の医療用テープを貼り付けて固定された傷口が、うっすら透けて見える。

 剃刀で、アルヴィス自ら手首に押し当てたのだろう傷だ。
 俗に言う躊躇い傷一つ無く、一息に刃を押し当てたらしい見事な切り口だが、傷自体はそんなに大したことはない。
 心配していた傷口からの感染も、先程出た採血結果で異常なしと出ていたから一安心だ。

 切り口がキレイなので傷の癒合(ゆごう)も早いだろうし、注意を払って治療すれば傷跡も目立たなくて済むだろう。


「・・・・・・・・・・・・・」


 傷の具合を、ジッと確かめるように見つめた後。
 ファントムは小さく溜息を吐いてガーゼを元に戻し、包帯を柔らかく巻き直した。

 だが、その表情は傷の様子とは裏腹に曇っている。


「・・・・・・・・・・・・・・」


 失踪時の病室の状態から、アルヴィスが左手首を切っただろうことは既に分かっていた。

 しかし、現実にそれを目の当たりにしてしまうと、流石にショックだった。
 たとえ傷が大したこと無かろうと、アルヴィスがそういう行為に及んだ―――――・・・という事そのものが、ファントムにしてみれば衝撃だった。


「・・・・アルヴィス君・・・・・」


 確かに、失踪する数日前から―――――・・・いや正確に言えば再会した頃から、アルヴィスは情緒不安定気味な所があると気付いてはいたのだが。

 けれどそれは、日常生活を何不自由無く送ってきた者が突如発症した重篤な病のせいで、それまでの生活環境に制限を掛けられた時に多々起こり得る類の、ストレスによるモノだと思っていたのだ―――――───今までは。













 ファントムがアルヴィスと初めて出逢ったのは、15年以上前の事だ。

 当時アルヴィスは3才で、既に重度の気管支喘息を患っていた。
 当時も良く発作を起こしては家で寝込んだり、酷い時は入院することを余儀なくされていたものだ。
 けれど、喀血などを引き起こす気管支拡張症はまだ発症していなかったし、調節呼吸(人工呼吸器を使って機械で自動的に肺に酸素を送り込む処置)や輸血が必要になる程では無かった筈だ。

 しかも、離ればなれになっていた十数年の間にアルヴィスは一度緩解し、ファントムと再会する時点までは発作すら起こさなくなっていたらしい。


「・・・・・・・・・・・・・・・・」


 喘息は完治の難しい病だし、大学進学を控えて色々と変化しただろう生活環境や受験、その他諸々のストレスで再発するのは、当然考えられる事であり。
 気管支拡張症も、恐らく発症していなかっただけで既に幼い頃に肺を冒していたのだろうから、まあ条件が揃えば症状が出てくるのも納得できる。

 だが。


「・・・・・でもこの状態は・・・あんまり納得出来ないんだよね・・・・・」


 眠るアルヴィスの顔を見つめ、ファントムは静かに呟いた。


「・・・・細心の注意、払ってたんだけどな」


 医者になる気などまるで無かったファントムが、本気で医師を目指した理由はアルヴィスの持病の為だ。

 幼いアルヴィスが苦しんでいるのを間近で見て、何とかしてやりたいと心底思ったのがキッカケである。

 だから。

 再会してからというもの、アルヴィスの体調には常に心を砕いてきたつもりだった。

 毎日のピークフローメーターによる気管支の状態チェックも怠らなかったし、少しでも発作が起こりそうな気配があれば、多少強引にでも休養を勧めた。
 風邪や激しい疲労など、発作の引き金になるようなモノからは極力遠ざけたし、自宅マンションの空調にも気を配っていた。

 勿論いくら気を付けていたからと言って、喘息や拡張症を完全に抑えられるとは、ファントムだって思ってはいない。

 しかしアルヴィスの容態は改善するどころか、どんどん下降する一方だった。
 医療の専門知識のあるファントムがこれ程気を付けているというのに、アルヴィスの病状は決して思わしくない。むしろ悪化の一途を辿っている。

 環境や生活習慣が原因で無いとしたら、あとに残るのは心因的なモノしかない。
 精神的なストレスは、気管支系の病気には特に負担が掛かる。


「・・・・・・・・・・・・・・、」


 とはいえ、病状が思わしくないのは確かにストレスになるだろうが、それだけでこんなに不安定になり、自殺まで計ろうとするとは考えられなかった。
 アルヴィスの精神に何が多大な負荷を掛けているのか、分からない。





 此処に居るのは嫌だと、駄々をこねた彼。

 自分には構われたく無いのだと、泣いた彼。

 もう、離れたいと。
 自分の傍に居たくないのだと、叫んだ彼―――――───。



 つい、カッとして不埒な意地悪をしてしまったのだが、それは脆くなっていたアルヴィスの精神状態に拍車を掛けてしまっただろうか。






「ねえ、アルヴィス君・・・・・教えて? 何が・・・・気に入らないの・・・?」


 意識が無いと分かっていても、聞かずにはいられなかった。

 これでも、アルヴィスの為に良かれと思うことは何だってしてきたつもりだ。
 彼が喜こぶような事ならば、ファントムは何だってしてやりたいと思うし・・・・・また、その通りにしてきた―――――・・・昔から、いつだって。


「・・・・前は・・・・こうやって撫でてあげるだけで、すごく嬉しそうに笑ってくれてたのにね・・・」


 そっと手を伸ばし、優しい手つきで眠る青年の黒髪を何度か撫でてやる。


 幼い頃。喘息の発作を起こすとアルヴィスは必ず、見舞いに来たファントムに撫でてと強請ってきた。

 発作による酸欠は不安感を募らせるから、ファントムに撫でられる事で安心したかったのだろう。
 大丈夫だよ、僕が傍に付いているよと言い聞かせ。
 アルヴィスが眠るまでずっと頭を撫で、手を握っていたら―――――・・・それだけで心なしか発作が落ちつき、息づかいが楽になっていったものだ。

 発作の時だけじゃなく、幼い頃のアルヴィスはファントムに良く甘えていた。

 恐らく、甘えたくても甘える事が許されなかった周囲の環境が、ファントムに依存しきる状況を作り出したのだろうが―――――・・・・ファントムには素直に甘える子供だった。

 とはいっても、甘え方はとても不器用で。

 抱き締めて欲しい時も、撫でて欲しい時も、何かが欲しい時も・・・・・全部、その青く鮮やかな色合いの瞳で、ジッとファントムを見つめるだけなのだけれど。

 それでも、長い睫毛に縁取られた大きな瞳で見上げられるだけで。

 ファントムは、アルヴィスの『お願い』を全て汲み取る自信があったものである。





 それなのに。





「・・・・・・・・・・・・・・・・」


 自分を拒んで見せたり。

 勝手に病室を抜け出してみたり。

 手首を切ったりして―――――自殺の真似事をしてみたり。



 今は、アルヴィスの心が分からない。








 12年前、断腸の想いで幼かった彼と離れ。

 その数年後に、アルヴィスの行方が途絶えてから―――――─・・・・焦燥と凄まじい飢餓感に苛まれ発狂しそうになりながら、必死に行方を捜した。

 数ヶ月前にようやく、・・・奇跡的な確率で再会を果たして。

 もう二度と離さないと―――――・・・そう、心に誓ったのに。















「ねえアルヴィス君・・・・・僕はずっと、君に逢いたかったよ。逢いたくて逢いたくて・・・・でも見つからなくて、気が狂いそうだった」


 ファントムは椅子から身を乗り出し、アルヴィスの顔の傍に自分の顔を寄せた。


「―――――─・・・君もそうでしょう・・・? 僕に、逢いたかったよね・・・?」


 目を細め、白い頬に触れながら言葉を続ける。


「アルヴィス君には僕が必要だものね。・・・僕から離れたいなんて、そんな訳・・・有り得ないよね・・・・? ・・・・・それなのに、どうして君はこんな無茶をしちゃったんだろう?」


 言葉の後ろの方はもはや語りかけでは無く、自問に近かった。




 アルヴィスは、ファントムのモノで。

 ファントムの為だけに、存在する。

 アルヴィスを守り、腕に抱き締めるのはファントムだけで無くてはならないし、その自分から離れような事は有ってはならない。

 アルヴィスは、ファントムから離れて生きることなど、出来ないのだから。





「・・・ああ、そうか」


 眠る青年の傍らで、ファントムは何かを思いついたかのような声を上げた。


「アルヴィス君、病気で具合悪いのに僕があまり傍に居てあげられなかったから・・・・・寂しくて拗ねちゃってたのかな・・・?」


 言いながら、困ったような・・・それでいて嬉しそうな目でアルヴィスを見つめ。


「僕から離れたいとか、心にもない事を言ってたのはそのせいだったんだね。・・・・ごめんね? もう、寂しい想いはさせないよ・・・」


 アルヴィスの滑らかな白い頬を、そっと撫でる。


「アルヴィス君には、僕だけが居ればいいんだものね・・・・これからは僕がずっと、傍にいてあげるから・・・・・・」


 訳の分からないワガママで散々、悩まされ。
 挙げ句には失踪までされて、こんなに気を揉まされた事も狂いそうに心配する羽目になった事も、原因がそんな可愛い不満だったのならアッサリと水に流せるというものだ。

 ファントムは、酷く機嫌の良さそうな笑みを浮かべた。


「そうすればアルヴィス君の気持ちも落ちついて、きっと体調も良くなるよ・・・・だから―――――─」


 耳元で、覚醒を即すように甘く囁く。





 ―――――─早く目を覚まして、お姫さま。






「・・・・・・・・・・・、」


 それに、呼応するように。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 アルヴィスの長い睫毛がビクリと震え。

 やがてゆっくりと、持ち上がり始めた―――――───。











NEXT 27

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言い訳。
ファントムの脳内では、勝手に問題が解決し(笑)
何となくこのままハッピーエンドにいきそうな感じがしなくもないですが。
そんなわけありません。
・・・・アルヴィスが目を覚ました次回こそ、修羅場になりマス。
ごめんねアルヴィス、具合悪いのに・・・・!(爆)