『君のためなら世界だって壊してあげる』




ACT 15 『交差した道の行方 −8−』








―――――いかないで。



―――――いっちゃ、やだ・・・。






 潤んだその青い瞳から、ポロポロと零れ落ちる涙。

 可愛らしい顔を、それはそれは悲しそうに歪め。

 縋るように此方を見上げている・・・・自分より4つ下の少年。


 何度も噛み締めたのだろう小さな唇が、紅を掃いたかのように赤く染まって、白い肌をより強調し。

 長い睫毛を飾り立てるかのように、付着した水滴がキラキラ光り。

 元より鮮やかで色の濃い、瞳の青がうるうると涙に揺らいでいて――――とてもキレイだった。




 けれど。



 その姿は同時に、とてもとても悲しそうで・・・・・ファントムの心をあっと言う間に突き崩してしまうような危うさに満ちたものでもあった。


「・・・・ごめんね。仕方ないんだ・・・」


 抱き締めて、何処にも行かないよと言い出しかねない自分を必死に抑えつけ。
 ファントムは胸の痛みを堪えながら、精一杯笑顔を浮かべて見せた。いつもの笑みに比べれば、随分とぎこちないものではあったけれど。


「行かないと、・・・・駄目なんだ」


 せめて、と少年の黒髪を撫でようと手を伸ばし掛け―――――そのままギュッとこぶしを握る。
 一度触れてしまえば、二度と離せなくなってしまいそうだったからだ。

 決心が、鈍ってしまう。


「―――――・・・・」


 元々、自らが望んだ訳では無い海外留学だ。
 離れたくて、この子の傍を離れる訳では断じて無い。

 こんな悲しそうな顔で行かないでと言われ・・・・・自分の本心も離れたくないと思っているのだから―――――決心など、簡単にぐらついてしまう。

 元来、自分の意志を他人によって曲げられる事など受け付けない性格だから、尚更だ。



 だけど。



 ファントムも少年も、まだまだ子供で。

 どんなに承伏しがたい事柄でも・・・・・受け入れなければならない立場だった。
 今ここで抗っても、何ひとつイイコトは無い。

 色々傷付いて疲れ切って―――――そして結局、当初の予定通りに事が運ばれるだけなのだ。

 それならば、抗うだけ無駄だとファントムは思う。
 抗わず、出来るだけ早く彼の元へ戻ってくる事のみを考えた方が、利口だ。



―――――ただ、その理由を理解するには、目の前の少年はまだ幼すぎて。



 普段、あまり感情を表に出したがらない彼が、自分が行ってしまう事を嫌がってボロボロと涙を零す姿を見つめ。


「・・・・・・・・・・・・・、」


 ファントムは、自らに踏ん切りを付けるかのように深い溜息を吐いた。


「・・・ねえ、アルヴィス君・・・」


 腰を屈め、泣いている少年の頭に手を伸ばす。

 そして、精一杯の笑顔を作った。

 楽しくなくたって、いつだって作れる表情だった筈なのに―――――何故か今は、それが酷く難しい。


「・・・今は、離れちゃうけど。でも、僕は必ずアルヴィス君を迎えに来るよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」


 しゃくり上げるのをやめ、キョトンと涙に濡れた大きな瞳で此方を見上げるアルヴィスの頭を撫でながら。


 ファントムは、本心からの言葉を繰り返す。


「―――――─約束するよ。絶対にアルヴィス君を迎えに来るから・・・待っていて」


 そして、ジッと自分を見ているあどけない瞳に誘われるように、軽く触れるだけのキスをした。


「・・・ね、手紙も書くし。出来るようだったら電話もする」


 言いながら、つい我慢できずに小さな身体を抱き締める。


「だから、寂しくないよ・・?」





―――――出来るだけ頑張って、・・・・君の元へ早く帰るから。




 何度こうして、この小さな柔らかい身体を抱き締めた事だろう。

 何度、こうやって頭を撫でただろう。

 この、子供特有の高い体温も。

 あどけない可愛らしさも。

 舌っ足らずな物言いも。



 今度、再会する時には―――――─失われている。



 全部ぜんぶ、・・・・傍で見ていたかったけど。


 全て、君の成長は一緒に自分が、見守っていたかったけれど。






「・・・・っく、・・ぇ、・・・ふぇ・・・っ」


 寂しくないよ、と言われて。

 却って、ファントムが居なくなった後の寂しさを連想してしまったのか、腕の中で再び泣きじゃくり始めた少年の頭を宥めるように撫で続けて。


「・・・僕はアルヴィス君を絶対に迎えに来るから・・・・待っていてね」


 ファントムは何度もなんども、その約束を繰り返した。

 だから寂しくないのだと。

 だから、平気なのだと―――――─・・・・アルヴィスに言うようでいて本当は自分自らに言い聞かせる為に・・・・・言い続けた。



 そうでもしないと、少年を抱き締めた腕が離せそうに無かったから―――――───。


















 行かないで、と縋る小さな手を振り解き。

 ファントムがアルヴィスの傍を去ったのは、12年も前の事だ。

 本当ならばもっと早く彼と再会出来る筈だったけれど、そう上手くは事が運ばなかった。


 でも、ようやく。


 ようやく再開する事が出来て―――――──彼をもう一度、自分の腕の中へと抱き締めて。

 これでもう、何も心配することは無いと・・・・そう思っていた。



 少々強引な手段は使ったが、彼を同居させる事にも成功したし、実質的な保護者としての立場も手に入れた。

 これからはずっと、誰憚る事無く一緒に過ごせると―――――そう、思っていたのに。







―――――─何処かで、ボタンを一つ掛け違ってしまった。





 けれど、それが何処でなのかが分からない。

 分からなければ、どんどんどんどん、掛け違っていってしまうだけなのに。

 早くその場所に気付いてボタンを掛け直さなければ、取り返しの着かない事になりそうな・・・・そんな予感がしているのに。


 掛け違ったボタンが、何処にあるのか分からない。


 これからどんなに誤らず、正しくボタンを掛けようと―――――そのボタンを探し、外して掛け直さなければ―――――─掛け違い続けるだけなのに。




 ボタンが、何処にあるのか分からない。




 一体何処で。


 僕はボタンを掛け違えた―――――───?
















「・・・・お疲れですね・・?」

 軽く溜息を吐き。
 助手席のシートに深く凭れたまま疲れたように目頭を押さえたファントムに、真っ直ぐ前を見て運転を続けながらペタが声を掛けた。

「―――――うん、・・・・サボれないウザイ授業が最近多くてね・・・手を抜いていられないからムカつくよ」

 いっそ教授がポックリ逝ってしまえばいいよね・・・その為なら少しくらい僕も協力してあげるからさ―――――そんな物騒な事を口走りつつ。
 ファントムは苛々とした様子で、手にしていた携帯電話のスライド式の蓋を開けたり閉めたりカシャカシャと弄ぶ。

「・・・大体、今は学校なんかに来る気分じゃないんだよね・・・!」

 街を歩けば誰もが振り返るような美貌を不機嫌そうに歪め、ファントムはブツブツと不平を漏らした。




 今朝、アルヴィスが熱を出した。

 原因は恐らく、十中八九、――――夕べの行為のせいだろう。

 処置と称して・・・・アルヴィスに、性的な悪戯を強いた。



 ファントムにしてみれば、軽い悪戯のつもりだった。

 彼はファントムのモノなのに、自分から離れたいなんて有り得ない事を訴えたり、他の人間に楽しそうにメールなんて送ろうとしていたから・・・・・・ちょっとしたお仕置きのつもりで。


 それなのに、あんなに泣くなんて―――――ショックを受けるなんて、思いもしなかった。


 他人の手でイカされる事など初めてだろうアルヴィスが動揺するのは予測済みだったが、まさかあれ程衝撃を受けるなんて、ファントム自身想定外の事だったのだ。
 恥ずかしがり戸惑うだろうアルヴィスを優しく宥めてやって、そして・・・・・大丈夫。当然の反応だよ。可愛かったと―――――言ってあげるつもりだったのに。



 幼い頃は、彼が考えることや行動パターン、何にだって予測が付いた。

 今何が欲しいのかとか、何を思っているのかとか、そういう事だって全部。


 けれど今は、―――――───・・・・。





 今朝のアルヴィスは、具合も悪かったのだろうがファントムに対して完全に心を閉ざしていた。
 ファントムの方を見ようともせず、頑なに目を閉ざしていた。
 状態が状態だから、無理をさせる訳にはいかず。


 興奮でもして発作が起きては大変なので、とりあえず刺激しないようにファントムも終始無言で治療に当たったのだが―――――───。


「・・・・・・・・・・・・・・」

 車の外に流れる景色を、見るともなくただ瞳に写し。
 ファントムはその秀麗な顔を俯かせた。



 12年の歳月は、やはり無視することの出来ない長い時間なのだろうか。

 行かないでと、縋るようにファントムを見た・・・あの幼いアルヴィスはもう何処にも存在しないのだろうか。





 ―――――───彼にはもう、自分は必要ない?



 ―――――───心が、変わってしまった?




「・・・・・・・・・、」

 俯いていたファントムの瞳に、苛烈な光が宿る。



 アルヴィス。――――ファントムにとって、唯一大切なモノ。



 ファントムにとって、失って困るものなどたった一つしか無い。

 後はもう、どっちでもいいのだ・・・・・・あっても、無くても。
 生きていくには、確かに沢山のモノが必要である。
 衣・食・住。それらを手に入れる為の金銭、そしてそれを得る為の社会的地位やその他。
 けれど、ファントムにとってはそんなものは二の次だ。

 一番大切で唯一欲しい存在が手に入らないのなら、・・・・・他は全て要らないと思う。

 ファントムにとってはアルヴィスという存在が全てであり、彼が手に入らないのなら、他のモノ全てに価値など無い。




 ―――――──絶対に。手放すものか・・・・・!




 長い足を組み、その上に乗せていたファントムの白く優美な手がゆっくりと力を込めて握りしめられる。――――バキリ、と何かが砕ける音が車内に響いた。

「・・・ファントム、」

 その音にペタが驚いたように助手席の方を振り向き・・・・ファントムもそれでようやく、自分の手の中へと目線を落とす。

「あ、・・・携帯、壊れちゃった」

 大して困った様子も見せず、ファントムは真ん中に見事な亀裂が入ってしまったメタリック・ブラックの携帯電話を後部座席の方へと、無造作に放り投げた。

「ペタ、・・・・・・新しいの買っておいて。今度は違う色がいいかなあ・・・」

 無いと色々不便なモノではあるが、壊れてしまったモノへの愛着は無い。

「こっちの携帯って、軽いし薄くて使い勝手いいけど・・・・壊れやすいよね」

「―――――─あちらにいらした時は、重くて厚みがあって頑丈な携帯を、しょっちゅう壊されてましたが」

「違うよ、あっちに居たときは身の程知らずな輩が、僕に絡んでくる機会が多かったからね・・・・・・その弾みで濡れたり衝撃受けたりして壊れてしまっただけさ」

 意外と投げつけたら面白いくらい脳振盪起こしてくれるんだよね・・・・あのゴツい携帯もナカナカ役に立つんだよ―――――ペタの言葉で海外での生活を思い出し、ファントムはそう言ってクスクス笑った。

「あの頃は楽しかったなー。・・・苛々する事があっても色々と発散出来たしねえ。向こうじゃ手術やり放題で、ズバズバ人間の身体切り刻めたし―――――──ストレス解消出来たのにな!・・・・やっぱりこの国は駄目だよねー。研修医には簡単なオペしか回さないし。まあ僕今は学生だから、見学するくらいでどのみちオペ出来ないけど・・・・」

 自分の両手の平を広げ、それを見つめながらファントムは言う。


 どうにも、胸の内のざわつきが治まらない。

 血が、―――――見たいと思った。

 人間の皮膚を切り開き、ポッカリと開いた内臓の蠢いている生暖かい体内へと手を突っ込みたい。

 生臭い血液のヌメリを感じながら、びくびく震える内臓を掴み上げ感触を確かめたい。

 そしてそれを腹腔内から引っ張り出し、ブツリと鋏で・・・・・・・・・・・・・・・。


「―――――・・・・・ああ、駄目だな」

 ファントムは小さく頭を振って、その感覚を振り払った。

 どうにも、最近精神的にバランスが崩れかけている気がする。
 これでは、アルヴィスの行方が掴めず自暴自棄になっていた頃と同じだ。

 今はちゃんと、彼はファントムの傍にいるというのに。

「・・・ファントム・・・・・?」

「大丈夫だよ、ペタ」

 気遣わしげに名を呼ぶ運転席の男に、ファントムは作った笑顔を見せた。
 そして、言う。

「・・・ねえ早く病院戻ろう? アルヴィス君に、逢いたい」





 早く帰って。



 あのキレイな顔を眺めて。

 その華奢な身体を抱き締めて。

 彼の纏う、清浄な空気を肌で感じて。

 彼の可愛い声が聴きたい。



 そうじゃないと、―――――─気が狂いそう。




 彼に、―――――・・・・逢いたい。







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言い訳。
さっさと、ご乱心の様子書こうかと思ったんですが。
つか、この後書いたんですが。
その前に・・・アルヴィスが誤解してるように、決してトム様は別に小さい頃、単に興味本位でアルヴィスを可愛がってた訳じゃないんですよ。
離れたくて離れたんじゃないんですよ、ってトコを書いて置きたかったんで先にこっちを書きました。
アルヴィスはトム様にとっての、唯一の精神安定剤です。
失ったら、・・・・狂っちゃいます。
そこの所アルヴィス、ちゃんと理解してあげられればいいんですけどね・・・・今の状態じゃ、無理ですよねえ(笑)