『君のためなら世界だって壊してあげる』




ACT 10 『交差した道の行方 −3−』








 朧でハッキリとしない意識の中、感じる・・・断続的な苦痛。



 息が上手く出来なくて、・・・・苦しい。

 胸に何かが詰まって上手く酸素が吸えていないのに、強引に息を吸わされる。

 ちっとも楽にならない。

 苦しくて、それから逃げたくて、必死に藻掻こうとするのに―――――─身体が動かなかった。

 声も出ない。瞼も、開かない。

 息も上手く吐けていない気がする。

 胸が・・・苦しかった。

 口から喉奥に掛けて―――――固い何かが差し込まれている感覚があり、それが喉元と口内を圧迫して痛みを感じる。

 時折、喉から肺にかけて冷たい水が流れるような感覚が走って、それに胸が満たされて溺れるような苦しさを覚えた。

 片方の上腕が時折何かに締め付けられては、緩められるのも鬱陶しいのに・・・・手が動かない。 






 苦しい。

 くるしい。

 痛い。

 イタイ。

 辛い。

 もう、イヤダ・・・・。







 何故、こんなに苦しいのか分からない。

 どうしてこんなに、息をするのが辛いのか、分からない。






 こんなに、苦しくて。

 こんなに、痛くて。

 吐きそうに気持ちが悪くて。

 身体が熱くて怠いのなら。




―――――─全部いらない。

 こんな苦しさを感じる身体なんて要らない。

 もう息なんてしたくない・・・お願いだから、そっとして。



 頼むから放っておいて。



―――――─もう、何もしたくない。したくないんだ・・・・・。








―――――──このまま静かに、眠らせて。















 バスルームで倒れて気を失い。
 アルヴィスが完全に意識を取り戻したのは、それから4日後の事だった。
 一時期はICU(集中治療室)で人工呼吸器を付けられたり、輸血されたりと大事だったらしいが、今は一般の病棟で点滴と酸素を供給するためのチューブを鼻に入れられているくらいに落ちついている。
 あと3〜4日経過を見て、大丈夫なようなら自宅に帰る事も可能だと言われた。






 しかし。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 その事実はちっとも、アルヴィスの心を晴らしてくれるモノでは無かった。
 アルヴィスにしてみれば、そんな事態に陥ってしまった事そのものがショックだったし、完治した訳では無いから再び似たような事が起こりかねないなどと聞いてしまってはもう、・・・退院出来ることなんて嬉しくも何ともない。









 それに―――――。

「・・・・・・最悪だ・・・」

 病室のベッドの上で小さく丸まり、アルヴィスは布団の中で溜息を吐いた。
 ICUを出る時に鼻と口を覆うタイプの酸素マスクを外され、鼻腔に挿入するための突起が2つ付いた透明なチューブを鼻に装着されて、車椅子で昨日、アルヴィスはこの個室に移ってきたのであるが。

 一緒に付いてきた幼なじみは部屋に入るなり、薄手の医療用手袋を填めビニール袋を片手に持って、ベッドに寝たアルヴィスの布団をはぐってきたのだ。
 驚くアルヴィスに、一応体面上という事で白衣を羽織りダテ眼鏡まで掛けたファントムは、事も無げにバルーンそろそろ抜かないと自力でオシッコ出来なくなるから・・・などと言って患者衣の裾を捲ってくる。


 意識のない患者は、当然自力でトイレに行くことが出来ない。
 だから、管を通して・・・・袋に溜める、という処置が必要な事は理解できる。
 そしてアルヴィスは数日間マトモに意識が無かった。
 その処置をされる条件が揃ってたのだから、・・・・・されてしまったのは仕方がないというのはアルヴィスにだって分かる。
 意識が戻れば自力でトイレへ行けるから、その処置を外されるという事も。


 しかし、だ。


 その管を誰が外すのか、という事はアルヴィスにしてみれば大問題である。
 そんな・・・・差し込まれてる部分が部分なのだからして、抜く時は絶対に見られてしまうのだから。
 それは流石に恥ずかしいし抵抗がある。



 なのに、それを、―――――──ファントムがやるなんて!



 女性の看護師にされたいわけでは決して無いが、というかそれも絶対嫌だったが、・・・・その嫌さに匹敵する抵抗感がある。
 せめて他の医者(男)にやって貰いたい・・・・そう訴えてアルヴィスは嫌がったのだが、幼なじみは許さなかった。
 早くしないと、ココにまた管入れて導尿しないとオシッコ出せなくなっちゃうよ? 毎日僕に家で管入れられるのと、今、僕に管抜いて貰うのどっちがいい? などと脅しを掛けてきて、なし崩しに下半身を露わにしアルヴィス自身に手を触れて―――――─チューブを抜いたのである。



「・・・・・・・・・・」

 今思い出しても憤死したくなるほど恥ずかしく、記憶の彼方に吹き飛ばしたいような出来事だ。
 必要な処置だったのは分かっている。
 ファントムに悪気が無いだろうということも。
 恥ずかしがる自分が良くないのだし、そもそもそういう処置を受けなければならない状況に陥ったのは自分なのだから。
 だが、そう簡単に気持ちの整理が付かないのも事実。

「・・・・・・・・・・・・・・・」


 感情が、頭に付いていけない。
 頭で理解しても、感情が納得してくれないのだ。


「・・・・・・・・・・・・・」


 二度までも、意識を失う程の発作を起こして。

 救急車にまで乗ってしまって。

 身体に、色々な管を通されて。

 喉に麻酔を掛けられ、堅いチューブの気管支鏡を挿入されて何度も反射で吐きそうになりながら、もう駄目だ止めてくれと藻掻く身体を押さえ付けられて―――――─気管支内を洗浄された。

 腕には常に、点滴の針が刺されていて。

 トイレに行くときだって、点滴がぶら下げられたキャスター付のスタンドを持ち繋がったままで移動しなければならない。・・・しかも重たい酸素ボンベ付きだ。

 どれもこれも、自分の身体の為の、仕方のない処置。



 それは分かるのだ―――――─頭では。


「・・・・・・・・・・・・」

 だけど。どうしても思ってしまう。



 少し歩いただけで息切れしてしまう、苦しさも。

 疼くような、肺の奥から込み上げてくる痛みも。

 検査の苦しみも、処置の気恥ずかしさも。

 チューブに繋がれた針が刺された血管に、時折生じる鬱陶しい痛みも。






 ・・・・・みんな、健康だったら味わわない苦痛だろ・・・・・?






 発作の時の、苦しさと痛み・・・そして恐怖を、アルヴィスは忘れられない。

 苦しくて苦しくて―――――肺と詰まった血液全てを、吐き出してしまいたくなった。

 息の吸えない役立たずな気管をえぐり取って、喉に風穴を開けてしまいたい衝動に駆られた。

 激しい咳と共に、内臓全て吐き出してしまえとすら思った。

 いっぱい・・・真っ赤な血が出て、鉄臭く酸味のある液体を味わい気分が悪くなった。



 いつまた、あんな風になるか分からない。

 そしてその度にまた、こんな目に遭うのだろうか。

 また、・・・痛くて苦しくて、辛い検査を受けて・・・処置を受けて。





「・・・・・・・・・・・・・・」

 ベッドの中で丸まったまま、アルヴィスは疲れたように目を閉じる。


 自分には夢も希望も無いんだな―――――─そう思った。

 一生、こんな風に入退院を繰り返さなくてはならないのだろうか。

 学校も行けず・・・卒業も出来なくて、勿論働けないままで。



「・・・・・・・・・・・・・」


 嫌だと思っても、―――――─身体が言うことを利かないから。

 頑張りたいと思ったところで、身体がそれを許さないのなら。


「・・・・生きてる意味、無いだろそれじゃ」

 ポツリと口に出して言えば、それは更に現実味を増してアルヴィスの心を刺した。


 青天の霹靂―――――─・・・・数ヶ月前までは思っても見なかった現実が、アルヴィスを襲う。








 こんな身体いらない・・・・・・・自分がこんな身体だなんて認めたくない信じたくない。









「―――――っ、!」

 自分の中でどうにもならない衝動に突き上げられ、アルヴィスはガバッとベッドから起きあがった。
 鼻から耳の後ろを通り胸の前で纏められている酸素チューブを頭から抜き取りながら、床に足を付く。そして右腕に刺されていた点滴の針を、固定してあるテープと脱脂綿ごと剥がすように抜き取った。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 血と薬液がポタポタと腕と点滴の針から滴ったが、それを気にせずアルヴィスは扉へと向かって歩き出す。
 すぐに呼吸が苦しくなり、頭から血が下がるかのような気分の悪さを覚えたが、構わずに歩を進め―――――・・・扉に手を掛けた。
 何処に行こうという目的がある訳じゃない。

 ただ、・・・・病室に居たくなかったのだ。






「・・・・・・・・・・・・・」

 力無く扉を開け、アルヴィスは気分の悪さに半分目を閉じた虚ろな表情で、ヨロヨロと廊下にまろび出た。
 落ちついたクリーム色の廊下。
 病人を運ぶのだろうストレッチャーや、車椅子が折り畳まれて壁の収納スペースに入れられているのが見えた。
 廊下の遥か向こうに、モップを片手に掃除をしている人影が見えたが、辺りには患者も看護師も見当たらない。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 貧血なのだろうか、酷く気分が悪かった。
 息苦しさに閉口し、アルヴィスはもう早何処かに腰を下ろしたい衝動に駆られたが、それを必死に堪えて歩き始める。

「・・・・・・・・・・・・・」

 暫く寝たきりだったせいだろうか・・・・酷く身体が重くて、足がなかなか思うように動かない。
 身体の節々が痛むし、胸の奥に時折鈍い痛みが走って息が止まる。


 本当に―――――・・・・厄介な身体。


 自分の思い通りに出来ない身体を、アルヴィスはますます疎ましく思う。

「・・・・・・・・・・・」

 額に滲む冷や汗を感じながら、アルヴィスは場所の把握も出来ないままに院内を歩いた。
 そして、いつの間にか大きな窓が幾つもある―――――4機のエレベーターがあるホールに辿り着く。

「・・・・・・・・・・・・」



 エレベーターの上に、3Fと表示されていた。・・・・3階。





 さて、どうしようか。

 アルヴィスは考える。
 とりたてて目的がある訳じゃなかった。
 ただただ、あの部屋に居たくなくて―――――─それだけだったから。


「・・・・・・・・・・・・・・」

 ふと、外が見たくなって・・・・アルヴィスはゆっくりと窓に近づいた。
 この病院の周りは、公園か何かなのだろうか。
 街灯にぼんやりと照らされた暗い窓の下には、木が沢山生えている。

「・・・・・・・・・・・」

 気分の悪さに限界がきて、アルヴィスはその場にズルズルと座り込んだ。
 頭を支えていられなくなり、冷たいガラスに顔を押しつける。
 火照った頬に、ヒンヤリとしたガラスが気持ちよかった。
 そのまま、ガラスが熱を吸収して・・・苦しいのも痛いのも全部吸い取ってくれて・・・・この要らない身体ごと、消し去ってくれればいいのに―――――─漠然と、そんな埒もない事を考える。






 こんな身体いらない。

 役立たずな身体は必要ない。

 迷惑を掛けるだけ。


―――――─生きていても仕方がない。




 こんな俺、・・・ファントムだってすぐ愛想を尽かすに決まってる・・・・!!






 手間掛かりなだけだと、アルヴィスは思う。

 普通に何の滞りもなく動けて、学校へ行けて、他の人と同じように過ごせて。

 具合悪くなったりせずに、勉強できて遊べて・・・・何処にでも行けて。

 こんな、少し動いただけで息切れしてしまうような―――――すぐ熱が上がったり咳が出てくるような・・・しょっちゅう病院沙汰になるような身体なんて、厄介者以外の何者でも無いだろう。


「・・・・・・・・・・・」

 生い立ちが生い立ちだったから。

 アルヴィスは常に、自分の力のみを信じて生きてきた。
 もちろん、頼れて心強い存在であるダンナや兄弟のように育ってきたギンタなど、自分を支えてくれている人達あってこその強さだとは思っている。
 けれど、アルヴィスは彼らと本当の家族という訳では無い。
 だから、自分でやれる事は出来るだけ自分の手で頑張ってきたし、その為の努力だって惜しまずに生きてきた。
 養い親であるダンナに恥はかかせたくないから、勉強や部活などもひたすら真面目に頑張ったし、仕事持ちのダンナの妻に代わって時折は夕飯の買い出しや支度、ギンタと自分の弁当だって作ったりした。
 時には体力的にキツイと思うこともあったけれど・・・・それでも、何とかなったのだ。今までは。



「・・・・・・・・・・・・・・・」


 それが、崩れていく。
 足下から、ガラガラと。

 学校に行けない。――――単位が取れない、卒業出来ない。
 就職出来なければ、・・・・・収入が無い。
 こんな風に入院する、医療費だって馬鹿にならない筈なのに。

 だけど、身体が動かない。

 納得できない状況に、必死に身体を動かそうとするけれど・・・・すぐに力尽きる自分がいる。
 頑張ろうとする気持ちに、身体が付いていけない。

 いや、気力すら―――――─失せてしまいそうだった。






―――――─イヤダ。






 こんな人生、望んでない。

 こんなのは、嫌だ。

 なんで俺? どうして俺がこんな目に・・・・・?





 考えても仕方のない・・・・では、他の人が代わりにこういう目に遭えば良かったのか?と問われれば、間違いなく言葉に詰まるだろう負の感情に囚われつつ・・・窓に凭れながらアルヴィスは両手で顔を覆った。



 どれくらい、そうしていただろうか。
 時間的に言えばそう経っていた訳でも無かったのだろうが、酸欠と貧血による激しい頭痛と吐き気に襲われながらアルヴィスは窓ガラスに貼り付いた体勢のまま、冷たい床に座り込んでいた。





 そこへ、ふっと影が差し。

「――――大丈夫ですか?!」

 驚いたような声が降ってくる。
 不意に肩を掴まれ、その感触にアルヴィスはのろのろと目線を上げた。

「・・・・・・・・・・・・・」

 頬に掛かるほどの真っ直ぐな銀髪、明るい青色の双眸。
 僅かに甘さの残る理知的な美少年、といった感じの人物がアルヴィスの顔を覗き込んでいる。

「・・・アルヴィスさん!?」

「・・・・・インガ?」

 互いの顔を認め、名前を口にしたのは殆ど同時だった。

「―――――─どうしてここに?」

「・・・・・・・・・」

 そう聞きたかったのは、アルヴィスも同じだ。
 インガはアルヴィスの高校時代の一つ下の後輩で、同じ弓道部に在籍していた。
 3月にアルヴィスが卒業してしまい、それきり、逢っていなかったのだが―――――まさかこんな所で出逢うとは思っていなかった。

「・・・僕は、友人がここに入院していて見舞いに来た帰りなんですが・・・・もしかしてアルヴィスさん何処か悪いんですか!?」

 インガはアルヴィスの着ている患者用の寝間着を見ながら、驚いたように言ってくる。
 それはそうだろう・・・・彼が知っていた頃のアルヴィスは、健康そのものだったのだから。

「いや。・・・そうでも無い」

 答えにならないような答えを返し。
 アルヴィスは後輩に自分の様子を悟られたくなくて、ガラスに押しつけていた自分の身体を無理に起こした。
 しかし、その反動でまた血の気が下がってしまったのか、急激な眩暈を感じて前方に上体が傾げる。

「アルヴィスさん!?」

 それを慌ててインガが抱き留めてくれた。

「・・・・・・・・・ごめん、ちょっと・・・気分、悪くて」

 虚ろな口調で言いながら、アルヴィスはインガの胸に手を付き上体を離そうとした。
 しかし途中で力が抜けて、再びアルヴィスはインガに抱き留められた形のまま、後輩の腕の中に顔を埋める。

「・・・・・・・・・・・・・・・」


 ボンヤリとした意識の中。
 アルヴィスの脳裏に、脈絡のない思考が過ぎる。
 偶然出逢った後輩の姿が、健康そのものだった高校時代の自分への思慮を募らせた。
 あの頃はどんなに動いても・・・走っても、平気だったのに。





 ・・・・戻りたい。あの頃に、戻りたい。

 あの頃に、・・・・俺を還して。

 今の俺なんて、いらないから。還して。





「・・・・いらない」

「え、何ですかアルヴィスさん?」

「今の俺、・・・いらない・・から」

「・・・・・・・・・・・」

「俺を、・・・・・・して」

 アルヴィスの指が、縋るようにインガの服の胸元を掴んだ。
 端から見れば二人して床に跪き、抱き合っているようにしか見えない。

「・・・・・アルヴィスさん・・・・!?」

 インガはそっと、アルヴィスの身体を支えるようにその華奢な背に腕を回した。
 アルヴィスは後輩の胸に顔を押しつけるようにしたまま目を閉じ、譫言のように呟く。

「・・・やだ・・・もうこんなの、・・・やだ・・・・・・」




―――――─元に、戻して。




















「・・・・アルヴィス、さん・・・」

 透き通るように白い血の気の失せた顔で、縋るように泣き出しそうな口調で駄々をこねるアルヴィスに、インガは自分の胸が急速に高鳴るのを感じていた。
 鼓動が激しく脈打っている。
 アルヴィスに聞こえてしまわないだろうか――――そんな下らない事まで考えてしまって、払拭するように慌てて頭を振った。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 けれど、近い。
 距離が今は・・・・ゼロに近いほど、間近。
 そう思うと、ますます鼓動が早くなる。

「・・・・・・・・・・・・・」

 インガにとって、アルヴィスはずっと、・・・憧れていた先輩で。
 腕前は勿論、和弓を構える姿が凛としてとてもキレイで―――――黒袴姿での練習時や左肩を露わにしての試合時のアルヴィスは、思わず見惚れてしまう程美しかったのだ。
 部活動の時に話したり、時折帰りに駅まで自転車で彼を送ったりした時に背中越しにアルヴィスの体温を感じたりしたことはあったが・・・・所詮は、その程度。
 用事もないのに電話が出来るような、間柄じゃないし。
 メールだって、同じ。
 部の活動をアルヴィスが卒業してしまえば、それっきり。顔を合わせた時に話す程度。
 実際、3年には家庭学習期間があるから、卒業の日まで殆ど逢えなかった。

 アルヴィスが卒業する時に、冗談めかして『今度はお前が受験だな。・・・もし、インガが受験勉強で苦労してるようなら――――・・・俺が夏休みにでも家庭教師してやるよ』と、言ってくれて。

 けれど恐らく実現しないだろう約束を、ずっと未練がましく覚えているという状況だったのに。


「・・・・・・・・・・・・」

 それが今。―――――こんなに近い距離にいる。
 縋るように、自分の服を掴んで。
 胸に顔をすり寄せるように、押しつけて。
 そして自分の腕は間違いなく、・・・・憧れていた先輩の背を抱いている。

「・・・・・・・・・・・・・」

 忘れられなくて、・・・・彼と同じ大学へ進もうと思っていた。
 彼と同じ所へ受かって、そして彼に報告して。


 それで、――――その時こそ彼に。


「アルヴィスさん・・・」

「・・・・・・・・・・・・・」

 降って湧いた自分にとっての幸運にスッカリ舞い上がっていたインガは、腕の中のアルヴィスが苦しげに肩で息をしている事に気が付かなかった。

「・・・・・・・・・?」

 だが、ハーモニカを弱々しく、吐く息を震わせながら吹いた時のような低くて耳障りな音がすぐ傍から聞こえてきて、インガは眉を寄せる。

「・・・・・・・・・、」

 ゼーゼーという、心の何処かを掻きむしられるかのような、奇怪な音。
 それは、抱き締めているアルヴィスの背中から聞こえてくるようだった。

「・・・アルヴィスさん・・・?」

 インガがアルヴィスの肩に手をやり、顔を覗き込もうとしたその時。

「―――――アルヴィス君!」

 大きな声で誰かが叫び、慌ただしく近寄ってくる足音がしたと思ったら、グイッと強い力で腕の中のアルヴィスが引っ張られた。
 引き剥がされる、といった形容がピッタリな強引さである。

「・・・・・・・・・!?」

 驚いたインガの視線の先には、1人の若い医者。
 インガよりも薄い色合いの、輝く銀糸の髪。白皙の肌。キレイなアーモンド型の、月明かりに照らした紫水晶のような双眸。
 嫌味なくらい整った顔立ちの男だった。
 絶妙なバランスで配置された目に、高い鼻梁に、薄く形良い唇・・・・スッキリとした頬から顎にかけてのライン。
 Yシャツにネクタイ。裾の長いコートタイプの白衣を羽織り、小振りの角張った眼鏡を掛けたその医師は、いっそモデルになればという程の美形だった。しかも、異様に若い。
 けれど。
 神々しささえ感じさせるような美青年だというのに、―――――悪魔のように美しい、と称したくなるのは何故だろうか。
 纏っているのは白衣で。
 彼は闇色の物など何一つ、身につけてはいないのに。

「・・・・・・・・・・・・・・」

 アルヴィスを抱き込む彼の姿が、インガには天使を浚う悪魔のように見えた。

「―――――─君は?」

 アルヴィスの首筋に手を当て、脈を計りながら医師が問いかけてくる。

「もう、面会時間過ぎてるよね。何故、まだ居るの?」

 愛想の欠片もない、投げやりな口調だった。・・・声質だけは、柔らかくて深みがあり、良く耳に通る・・・・美声と形容されるだろうものだったが。

「―――――友人の見舞いに来て。もう帰るところでした」

 失礼な口調に少々ムッとしながらインガは答える。
 自分も大概、不興を買う言葉使いには不自由しないタイプだが、この医師も相当なモノだ。
 言い方もそうだが、何もアルヴィスをあんな、引き剥がすように取り上げなくてもいいだろう。
 言葉遣いだけでは無く、この医師は絶対に性格も悪いに違いない―――――そう思った。
 こんな男が、アルヴィスの主治医なのだろうか。

「あ、そ」

「・・・・・・・・・・」

 インガの予想に違わず、目の前の医師は返された言葉にどうでもいいかのような反応をし、目線を抱きかかえたアルヴィスへと落とす。
 そして再び口を開いた。

「――――──で、君はアルヴィス君とどういう関係な訳?」

「・・・・・・・・は?」

 まさかそんな質問が来るとは思わず、インガは間抜けに聞き返した。

「・・・ただ、アルヴィス君が倒れたから抱き留めました、・・・て雰囲気じゃなかったよね。前からの・・・・・知り合い?」

 医師が更に聞いてくる。気のせいか、言葉に刺を感じた。

「・・・・・後輩・・・ですけど。高校の」

 何故医師がそんな言い方をしてくるのかと戸惑いながらインガが答えると、そのやたらにキレイな顔をした医師はアルヴィスをお姫様のように抱き上げながら、そう・・とだけ短く言った。
 そして、アルヴィスを抱いたまま立ち上がり、付け加えるように口を開く。

「―――――何にせよ。身体がこんなに冷えて震えてるし、喘鳴まで聞こえてる。・・・腕を見れば点滴抜いて血で袖が汚れてるの分かるし・・・・・・普通だったらすぐ、ナースにでも報告するよね。アルヴィス君にみとれてる暇あったら、誰か呼んできて欲しかったよ」

―――――何かあったら、どうするの? 眼鏡の奥の、紫色の瞳が言外に語っていた。

「・・・・・・・・・・・・・」

 予期していなかった鋭い物言いに、インガは返す言葉も無く唇を引き結んだ。

 正論である。

 アルヴィスが抱きついてくるなどという、想像を遙かに上回った出来事に翻弄されて―――――─彼の状態に気づけなかった。
 せめて、どこが具合悪いのかくらい、聞けば良かったのに。

「・・・すみません」

 謝る言葉しか浮かばずインガはそう言って項垂れ、また顔を上げた。

「あの、・・・アルヴィスさんは何処が悪いんですか・・・?」

「・・・・・・・・・・」

 医師の顔から、一切の表情が消える。
 周囲の温度が、1度下がったような気がした。

「―――――君が知る必要は無いよ。・・・もう帰ったら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 言われた口調は柔らかいのに、インガは身体中に冷水を浴びたかのような凍えを感じ―――――───返事が出来なかった。
 返事どころか、足が動かない。


「・・・う・・、」

 その時、小さくアルヴィスが呻いた。
 途端、周囲に温度が戻る。

「・・・苦しい? 大丈夫だよ、病室帰ったらすぐ酸素入れてあげるからね。・・・発作は起きないよ、大丈夫だから」

 医師の表情がこの上も無く優しくなり、言い聞かせる口調も甘く慈愛に満ちたものになる。

「病室に戻ろうね・・・・」

 宥めるように、アルヴィスの顔に頬を寄せるその姿は、医師と患者というより恋人同士のそれに近かった。

「・・・やだ、・・・もう・・・やだ・・・・・」

 しかし抱きかかえられたまま、アルヴィスが力無く首を振る。
 息をするのも苦しそうなのに、必死に嫌だと言い募る。


 先程、インガの胸に倒れ込んできた時にも、言っていた言葉。

 何が嫌なのか、インガにはハッキリ分からなかったのだが・・・・・・・・。

 アルヴィスを抱き締めたまま、医師は心得ているように言い聞かせる。

「よしよし、大丈夫だよ。気管支鏡はしないから。アレ、辛いもんね・・ヤダよね」


 キカンシキョウ――――聞き慣れない名前だが、何かの検査か治療の名前だろうか。

 それを、アルヴィスは嫌がっている?


「・・・やだ・・・っ、嫌なんだ・・・・・」

 ゼーゼーと聞いている者の方が息苦しくなりそうな呼吸のもと、必死に吐かれる拒絶の言葉。

「よしよし、しないからね」

「・・・や・・・・っ、・・・・!」

 優しく宥める医師の言葉も聞かず、首を横に振り続ける彼。

「・・・・・・・・・・・・・・」



 けれど、インガの知っているアルヴィスは我慢強い人だった。
 弓道の試合の時、利き手の中指を酷く突き指していたのに根性でやり通した程の忍耐強さだ。
 それに分別のある人だから、治療の為ならばどんな苦痛だって耐えようとする気がする。

 こんな風に駄々をこねて治療を辛いからといって嫌がるような人では無い気がするのだが・・・・・。



「・・・・・・・・・・・・・」

「イイ子だね、アルヴィス君。大丈夫だから・・・病室戻って、少し眠っちゃおうか。せっかく体力少し戻ってきたんだからね、休まないと・・・・」

 考え込み黙ってしまったインガの前で、医師はそう言いながらアルヴィスを抱えたまま背を向ける。
 最早、インガの事など意識から抜け落ちてしまったかのようだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 その背中を、インガはジッと見つめた。
 医療に携わる者でもなく単なる高校生である自分に、彼の為に出来る事など無いだろう。





―――――──けれど、どうしてもアルヴィスの事が気になって。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 インガは暫く、その場に止まりじっと2人が消えた通路の奥を見つめていた―――――───。









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言い訳。
あれ、インアル!?(爆)
いえいえファンアルです。
尿道カテーテルの下りは書くかどうか迷いましたが、まあ、必要処置だし最初は絶対抵抗感じると思ったので・・・(笑)
アレ、男の人はスゴク嫌な感覚らしいですね、挿入時も抜く時も(爆)
そしてやっぱり、今回では終わりませんでした・・・_| ̄|○ 
まあ、病気ってそう簡単にアッサリ受け入れられないよね、自分自身がね。
―――――─って話です今回は。
ラストが気に入らなかった(というか次回が書きにくくなりそうだった)ので
23日にアップして貰った分に翌日、大幅に加筆修正してみました(爆)