『君のためなら世界だって壊してあげる』 ACT 9 『交差した道の行方 −2−』 その日、ファントムが午後からの授業を受けず早めに自宅に帰ろうとしたのは、とくに用事があったからという訳では無かった。 一緒に住んでいる年下の幼なじみが二日前からまた体調を崩し寝込んでいるので、気が塞がないように何かプレゼントでも買って帰ってやろうかと思っただけである。 幼なじみの青年は、身体が弱い。 それは小さいときからの事で、ファントムにしてみれば既にインプット済みだったのだが、青年はなまじ中学に上がる頃から高校卒業時点までは体調が良かったらしく、肝心な本人にその自覚が無いのが困ってしまう。 今日は勿論、昨日だって・・・・・あんな状態なのに登校しようとした。 年下の幼なじみは、小さい時から割と重度の喘息持ちで。 一時的に緩解(※症状が一時的に軽減または消失した状態。治癒とは異なる)していたらしいが、運命的な筈の再会時にはもう、再発して発作の真っ最中(というかそれが再発の最初だったらしい)。 感激する余韻も無く、彼を救急車で病院へと運ぶ羽目になってしまった。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 喘息は、珍しくない病気である。 けれども、決して油断は出来ない病だ。 年間に何千人も、急な発作を起こして命を落としている。 しかも、彼は―――――───・・・・。 「ファントム。・・・後は真っ直ぐご自宅で宜しいですか?」 助手席のシートに深く背を埋め思考の波に囚われていたファントムに、運転席に座った男が抑揚のない声で聞いてきた。 「・・・うん、目的の物は手に入ったしね。早く帰って渡してあげたいから」 チラリと、ゆったりした前に比べれば格段に狭い後部座席で窮屈そうに転がっている、『プレゼント』に視線を走らせ―――――─ファントムは頷く。 白っぽいクリーム色の、柔らかな革張りの後部座席にみっちり詰まって乗せられているのは、一抱えほどもある大きなウサギのヌイグルミ。 ファントムお気に入りの高級ブランド店に飾られていたモノと、同じタイプのモノである。勿論、ウサギが身につけている衣服(サイズは特注だろう)からネックレス、そしてピアスに至るまで―――――全てそのブランドの本物だ。 ヌイグルミ自体、展示用であり本来売り物では無かったのだが、そこをお願いして特別に同じ物を取り寄せて貰い購入したのだ・・・・・無論、付属品全てと一緒に。 幼なじみはもう、18歳。 男の子だし、流石にヌイグルミを喜ぶとはファントムだって思ってはいないのだが・・・・それでも見たいのだ―――――─想像以上にキレイに成長した彼が、可愛いヌイグルミを抱っこしている姿を。 出逢ったときの印象のせいか、何となくファントムの中で青年・・・アルヴィスにはどうしてもウサギのヌイグルミを持たせたくなってしまう。 お人形みたいにキレイで可愛らしい子供が、ぎゅっとウサギのヌイグルミを抱っこしていた姿がそれはそれは可愛らしかったので。 「・・・・また、嫌がられるのでは無いですか?」 真っ直ぐ前を向いて運転したまま、男が言う。 「―――――彼は華美な品を嫌う傾向がありそうですが」 数週間前、アルヴィスを連れ回し洋服やその他、身の回りの必要な品を揃えに来た時の事を言っているのだろう。 あの時は確かに、何が嫌なのか店に入る事自体を拒否しようとするし、品物を手に取ったら引き付け起こすかと思うような険しい形相で睨んでくるし、会計の段階に至っては貧血かと心配してしまうほど顔色が青くなったりと―――――─色々と忙しかった。 「華美ね・・・アルヴィス君に似合うモノをと思っただけなんだけどな」 いっそ派手な程に人目を引く、彼の美しい容姿に反して・・・・・アルヴィスはとかくシンプルで質素な物を選びがちだ。洋服も、靴も、その他の物も。 せっかく、この世のあらゆる素敵なアイテムが似合う容姿に生まれたのだから、それを享受すればいいと思うのに。 「慎み深いんだよね、アルヴィス君は!」 そんなところも可愛いと思いながら、ファントムは言葉を続ける。 別にアルヴィスがそう思っていた所で全然構わない。自分が、彼に似合う物を選んであげれば良いだけの事だから。 このウサギも、それの一環。 「多分、この子の事も嫌がるとは思うけどね。・・・でもコレあったら、少し気が紛れるかなと思ってさ」 寝室に、ぽつんと1人取り残される彼。 具合が悪いときは、ずっと傍に居てあげたいと思うけれど―――――どうしたって離れる時があるから。 そんな時、傍にこういう大きくて触ると暖かい感触の物があれば、少しは気分も紛れるかも知れない。何なら小型カメラ仕込んで様子伺いに利用しようかな・・・と思ったりしたのはナイショ。 「だから、早く帰ろうペタ。アルヴィス君、まだ熱あるんだよね。・・・・心配だから」 朝の調子ではまだ微熱が下がってなかったし、ピークフローの最大値が70%を切るくらいまで落ち込んでいた。 ピークフローとは、力一杯息を吐き出した時の息の強さ(速さ)の最大値の事で、つまり吐く息の『瞬間最大風速』の事である。 このピークフローの値を測ることで息苦しさや発作の有る無しに関わらず気管支の状態を客観的に知ることが出来るから、ファントムにしてみればアルヴィスの体調を管理してやる為にも、彼にやらせるのは大切な日課だった。 計り方自体は、スポーツドリンクのボトルタイプみたいな容器を手に持ち、上部に取り付けられた太いストロー型の吸い口を咥えて息を吹き込むだけだから簡単だ。後は容器の針が示すメーターの目盛りを読むだけでいい。 「ピークフロー、朝計ったら3回とも70%切ってるんだ。・・・ちょっと危険だよね。また発作起こすかも・・・・」 「――――思わしくないですね。せめて70以上なら・・・。もうβ2をお使いになった方が、」 「んー、でもまだ発作までは起きてないからね。なるべくβ2は使いたくないんだよ。ただでさえ気道が過敏になってるからさ・・・」 β2。 β2刺激薬の事で、要は気管支拡張剤―――――喘息の発作などを抑え楽にする薬の事だ。効果がある反面、使いすぎると気道が過敏になって逆に発作を引き起こすという薬害がある。 「そうですか・・・でもそれでは確かに、傍で様子を見てらした方が宜しいでしょうね」 心得たように、男が頷いた。 運転している男・・・・ペタは単なるファントムお抱えの運転手、という訳では無い。 れっきとした内科医で、常勤ではないもののファントムの叔父が経営する病院の副院長である。 もっとも、彼はファントムが海外へ留学した時点からの、祖父が付けたお守り役というか監視役というか―――――─まあとにかくファントム専属の秘書みたいなもので、医師として働く事は殆ど無いのだが。 今はもっぱら、ファントムとついでにアルヴィスの世話を焼くのが主な仕事だ。 しかも、海外では正規の医師として認められているとはいえ、国内でまだ資格を取っていないファントムは公には緊急時以外アルヴィスを治療することは出来ない―――――─その為、医師免許を取得しているペタが傍に居ることはいいカムフラージュになるのだ。 輸液(点滴)だろうが薬の指示だろうが、ほぼファントムがしているが表向きはペタがしていることになっている。 アルヴィスの主治医は、実質的にはファントムだが名義的にはペタなのだ。 根本的に他人とは一線を画す主義のファントムだが、ペタには全面の信頼を置いている。 だから、ファントムは隠さずに顔を曇らせた。 「うん・・・出来るならずっと、傍に居たいよ。いつ、あっちの症状が出たらって思うと―――――心配で堪らない」 「・・・・・”気管支拡張症”ですか?」 ハンドルを握ったまま、ペタがその血の色が透けたような赤い瞳で隣のファントムを見る。 軽く頷いて、ファントムは微苦笑を浮かべた。 「まだ大して症状出てないし、感染症も完治しつつあるし、・・・このまま症状が落ちついてくれればいいんだけど。微熱、出てるからね・・・」 アルヴィス自身は知らない事だが、彼は『気管支喘息』の他に『気管支拡張症』も併発している。 気管支拡張症は、気管支の壁の一部が破壊されて慢性的な炎症が起こり、細胞が損傷を受けて破壊され粘液が溜まっていく病気の事だ。 やがて気管支の壁は徐々に弾力性を失い、気道は拡張して弛んでしまう。 そして粘液の増加は細菌の増殖を促し、気管支を詰まらせたり細菌感染を起こした分泌物がたまって、さらに気管支の壁に損傷を与えていくのだ・・・・・・・炎症と感染が肺胞まで広がると、肺炎や瘢痕化(組織の硬質化)が起こって、肺組織の機能が失われてしまうという、厄介な病である。 重症化すれば心臓にかなりの負担が掛かったり、呼吸不全に陥ったり、肺に炎症を繰り返す事で出血(喀血)もするようになり・・・・即座に命に関わってくるような症状が多発する。 喘息が再発しただけでも気に病んでショックを受けているようなアルヴィスには、とても告げられない内情だ。 何せ、気管支喘息もそうだが―――――─気管支拡張症もまた、完治はしない病気だから。 「・・・無理して肺炎でも起こされたら堪らない。アルヴィス君学校行きたがってるからね―――僕が居ない間に課題でもされて無理してたらと思うと、気が気じゃないよ」 ストレスとかも良くないし・・そう言ってファントムは肩をすくめた。 「では、少し急ぎましょう」 ペタがアクセルを踏む加減を少し強める。 黒塗りのジャガーは静かに、その速度を上げた―――――───。 マンションに着き。 ペタが駐車場に車を置いてヌイグルミを持ってくる間に、ファントムは先に自宅へと向かった。 最上階エリア専用エレベーターに乗り、セキュリティを解除して、自宅ドアを虹彩認証で開いて中へと入る。 リビングには居ないだろうと思っていたので、がらんとした室内を通り抜け真っ直ぐに寝室へと向かった。 「・・・・アルヴィス君?」 けれど、薄暗く照明を落とされた室内には誰も居ない。 ベッドには、今さっきまで眠っていたような痕跡が残っているのだが。 「・・・・・・・・・・・」 少しの間逡巡して。 ファントムはバスルームへと向かった。 朝、シャワーは湯気が喉を刺激するかも知れないから浴びるのは夜に―――――そう言い置いていたのだが、もしかして、と思ったのだ。 「・・・・・・・・・・アルヴィス君?」 一応、ドアをノックして。 ファントムはドアノブに手を掛け、ゆっくりと開いた。 途端、目に突き刺さる、赤。 バスタブに降り注ぐ、シャワーの音が聞こえる。 「―――――─・・・、」 しかし、ファントムの耳にはそんなモノは入ってこなかった。 「・・・・アルヴィス君!?」 白い大理石の床に、バスタブに頭を持たれ掛けさせるような体勢で倒れている青年。 力無く閉じた瞼、青白い頬、浮かべる苦悶の表情、色のない唇―――――─・・・・身につけた寝間着も青年の肌も何もかもが白い世界で、青年の黒髪と彼の身体の下にある真っ赤な血溜まりだけが、強く鮮やかな色彩でファントムの目を突き刺した。 「――――・・・ゴホッ・・・」 青年が弱々しく咳き込み微かな喘鳴が耳を打った瞬間、ファントムは我に返る。 「・・・アルヴィス君、」 大股に近づき、青年の傍に膝を付いた。 そして、華奢な肩を掴んで自分の身体に凭れ掛けさせるように上体を起こす。 細い身体は、痙攣を起こしているかのようにブルブル小刻みに震えていた。恐らく意識はもう、希薄になっているだろう。 「・・・まだ、吐きそう?」 優しく聞きながら、傍らに積んであるバスタオル数枚に手を伸ばし―――――床の血を隠すように広げて敷き、残った一枚で顔を拭ってやる。 「ゴホッ・・・ぐ、・・う、」 顔を顰め、青年がまた血を口から吐き始めるのを見て、ファントムは宥めるように軽く背中を叩いてやった。 「大丈夫だよ。・・・唾液とか色々混ざるから・・・多く見えるけどそんなに血液自体は戻してないからね」 「う・・・うっ、」 辛そうに涙を流して血を吐き続けるアルヴィスの身体を支えつつ、そう言ってやる。 体内からの出血は患者を著しく不安にさせてしまうので、とりあえず落ちつかせる為には嘘でも傷は浅いと言ってやった方がいいし、吐いた血も見せない方がいい。 「大丈夫だよ、そんなに吐いてないから・・・」 口許から溢れ出てくる鮮やかな赤色の、気泡を含んだ血液。 喀血―――肺からの出血だ。喘息ではなく・・・気管支拡張症の、発作。 心配していた事が、起こってしまった。 「―――――─・・・」 バスタオルの下に隠された出血量を思い、ファントムは密かに眉を顰めた。 アレでは恐らく300ml近くは出血している。拡張症の喀血にしては異様に多い・・・しかもまだ、出血が止まらない。 「・・・・・ゴホ・・」 咳に力が無く、喉鳴りも弱々しい。もしかしたら太い動脈が切れている可能性がある。 ―――――─かなり、危険だ。 急性の失血でショック症状を起こし掛けているし、このままでは・・・・・・・。 ファントムの額に、じっとりと冷たい汗が滲む。 「・・・・、う・・ぐ、・・・」 その時。 ファントムが抱いている、アルヴィスの肩がハッキリと強張った。 「!?」 グウッ、と喉が鳴り―――――アルヴィスが声もなく、口を何度か喘ぐように開く。 けれど、何も出てこない。 窒息・・・。ファントムの背筋に冷たいものが走った。 慌ててアルヴィスの身体を後ろから抱え直して、握りこぶしを作って鳩尾に押し当てる。 もう片方の手でそのこぶしを握り、身体を持ち上げるようにして手前上方に強く引いた。 ハイムリック法・・・・腹部を圧迫して咳と同じ原理で異物を外に押し出す方法だ。 血液が気管に詰まっている―――――これを吐き出せなければ、窒息死してしまう。 祈るような気持ちで、ファントムはその行為を繰り返した。 咳をして。・・・・頼むから。 やがて。 「・・・・・・ごほっ、」 アルヴィスが再び、身体を震わせて塊のような血を吐いて咳き込んだ。そして、弱々しいが続けて咳き込み始める。 「・・・・・・・・・・」 どうやら、窒息は免れる事が出来たようだった。 けれど喀血が治まっていない以上、油断は全く出来ない。それでなくとも今まで出血した量も決して少なく無いのである。 ファントムはアルヴィスを抱え上体を起こした体勢を保たせたまま、緊張で冷えてしまっている片手を無理矢理ジャケットのポケットに突っ込み、携帯電話を探した。 そしてリダイヤルを押し、すぐに繋がった相手に一方的に用件を告げる。 「ペタ。・・・アルヴィスが喀血した。すぐ救急車呼んで・・・それから、氷と、・・・スタッフが来る時に挿管の準備してくるように言って」 相手の返事を待たずに電話を切ると、ファントムはその場に携帯を放り捨て、咳き込み続けるアルヴィスの顔を覗き込んだ。 「・・・・・・・・アルヴィス・・・」 人形のように整ったキレイな顔はすっかり青ざめ、弱々しい咳と喀血を繰り返している。 疲労の影を色濃く貼り付けた青年はグッタリと瞼を閉じ、ファントムの腕に凭れ力無く頭を下に垂らしていた。 大量喀血時の応急処置は、窒息しないようにこうして抱き支えて上体を起こして頭を下げておくか、横たえて顔を横向きにしておき―――――─胸を氷で冷やしてやることくらいである。 後は酸素を入れるにしても、止血をするにしても、気管挿管してからで無ければ対処出来ないし、そもそも輸液や輸血だって、・・・・此処では無理だ。 「・・・アルヴィス・・・・」 もう殆ど意識が無いのを知りつつ、ファントムは青年の名を呼び続けた。 その顔からはいつもの柔らかな笑みが剥がれ落ち、彼自身が何処か痛みを堪えているような悲痛な表情が浮かんでいる。 眉を寄せ、真剣な眼差しで食い入るように抱きかかえた青年を見つめ・・・・ファントムは抱き締めている腕に力を込めた。 ―――――──どうして今日、君の傍を離れてしまったんだろう。 ―――――──どうして僕は、君についてあげてなかったんだろう。 ファントムの胸を過ぎるのは、後悔ばかりだ。 状態が良くないと、知っていたのに。 いきなりに急変する事だって、充分に考えられたのに。 何故、彼の傍を離れたのか。 こんな事なら、大学など行かずにずっと付いていてやるべきだったのに。 ―――――─アルヴィスが、死ぬ? そう思っただけで、全身が瘧(おこり)のように震えた。 足下が崩れ、奈落の底に落ちていくような気がした。 世界ガ、壊レル。 アルヴィスが自分から失われたら、それこそファントムは窒息してしまうだろう。 息が、出来なくなる。 この穢れた世界で、君だけがキレイ。 君の傍でだけ、僕は呼吸が出来る・・・・。 君が失われたら、僕は息が出来なくて、窒息してしまうだろう。 苦しくて、息が出来なくて、僕は世界を壊すだろう。 君が居ない穢れた世界、滅茶苦茶にして―――――僕も壊れて死ぬだろう。 君だけ。 僕には、君だけ。 欲しいのも、傍に居て欲しいのも、・・・・君だけ。 だからお願い。―――――僕の前から・・・・・・。 消 え て い か な い で 。 「ファントム!」 「・・・・・・・・ペタ」 バタンとバスルームのドアが開き、濃い色合いの銀髪を靡かせながらペタが入ってくる。 それを、ファントムは抱きかかえた青年に匹敵するほど蒼白になった顔色で呆然と見上げた。 「もうすぐ車が来ます。・・・氷で冷やしましょう」 「・・・・・・・・・」 ペタはいつも通りの表情を伺わせない顔でチラリと、アルヴィスと床に広げられたバスタオルの上に浸みた血液を見ながら傍に寄ってきた。 そしてファントム達の所へ屈み込み、手にした氷嚢を差し出す。 しかしファントムはアルヴィスを抱きかかえたままで、動こうとしなかった。 「・・・・ファントム?」 「・・・・・・・・・・・・」 ペタは怪訝そうな顔でファントムを見て、彼が酷く動揺しているのを察する。 「―――――しっかりして下さい。アルヴィスは・・・まだ生きてます」 言いながら、アルヴィスの寝間着の前を開き胸部分に氷嚢を押し当てた。 「もうすぐ、スタッフが来ます・・・一刻の猶予もありませんよ」 「・・・・・・・・・・そうだね、」 ファントムはようやく掠れた声でペタに頷き、気管挿管の準備の為に抱きかかえていたアルヴィスの身体を床に寝かせ、窒息防止に顔だけを横に向ける。 そしてタオルを胸に乗せてから、氷嚢を当て直した。 それからゆっくり、現状を説明する。 「――――喀血が治まらない・・・止血剤と鎮静剤、・・・調節呼吸が必要だと思う。場合によってはBAE(気管支動脈塞栓術)をやるべきだろう・・・」 調節呼吸とは、いわゆる人工呼吸器を使って機械で自動的に肺に酸素を送り込む事だ。気管支拡張症の場合は、大抵それで出血が治まる。 しかしアルヴィスの場合は出血量がかなり多く未だ止まっていない事を考えると、太い気管支動脈が切れている可能性があった。 そうなれば調節呼吸では役に立たない。・・・気管支動脈の起始部においたカテーテル(極細のチューブ)からゼラチンスポンジを注入し、止血する気管支動脈塞栓術を施す必要があるのだ。 けれどそれも、時間の勝負である。 今なお血を吐き続けているアルヴィスが、気管にまた血を詰まらせてしまえば――――・・・一巻の終わりだ。 先程は上手く吐き出せたが、今度もそう上手くいくとは限らない。まして、肺から出血しているのだ・・・・余り胸付近を圧迫するのは避けたかった。 これ以上一気に大量出血してしまえば、それでショック死する可能性だってあるのだ・・・・。 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 1秒が数時間にも感じられるようなもどかしさを感じながら、ファントムは強張った表情でアルヴィスを見つめていた。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 ―――――──こんな気持ちは知らない。 海外で研修中に、こんな風に死んでいく患者など、いくらでも見てきた。 手を尽くしても、死ぬときは死んでしまうものだと、割り切ってきた。 だって、手遅れだったんだから・・・・そう思って、患者に泣きつく遺族を冷めた目で見つめていた。 医者は別に万能では無いし、神ではない。 出来る事に限界はあるし、助けられない時だってもちろんある。 だから、助かるとか助からないとか・・・そういうのは運命なのだと割り切っていた。 外科で、身内を執刀するのは禁忌だと―――――そう言われていたけれど、ファントムは自分の身内である祖父だって知り合いだって、もしそういう機会があるのなら平気だと思っていた。 べつに、助からないなら助からないでいい。 運が悪かったのだから。・・・そういう運命なだけなのだから。 動揺なんかしないし、多分他の患者を切る時と同様に扱える自信があった。 けれど今―――――───。 「・・・・・・・・・アルヴィス・・・」 ファントムは震える指で、青白い首筋にそっと触れる。 失われる事が、怖くてこわくて・・・・・堪らない。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 弱々しくしか触れない脈が、ファントムの心を不安で引き裂く。 医療に携わり人間の命に関わる職に就いている筈なのに、彼の命に触れる事が・・・・怖くて、堪らない。 「ペタ。・・・挿管は君が、」 横たわる青年から目を離し、傍らに屈む男にファントムがそう言いかけた時、バタバタと数人の者が駆け付ける足音が聞こえ、ドアが開いた。 救急車のスタッフ達だ。 彼らは迅速に担架をその場に置き、ファントム達の方へと駆け寄ってきた。 「・・・喀血が酷いとのことでしたので、挿管準備をして参りました」 言いながら、太く透明な気管チューブやら潤滑剤を見せる。 彼らはファントムの叔父の病院から来たスタッフであり、当然ファントムが(海外での資格だが)医師である事を知っている。 「私が認定救命士の資格ありますので、やらせて頂きます」 「・・・そう。早くね」 自分がやらなくてもいい―――――─そう思って、ファントムは少しだけ安堵した。 こんなに動揺していては、アルヴィスのライン(点滴静脈注射用の針留置)すら、失敗しかねなかった。 まして挿管ともなれば・・・下手をすればアルヴィスの気管を更に傷つけてしまう事にもなりかねない。 アルヴィスの身体がスタッフ達によって担架に乗せられ、顔を固定され―――――挿管の準備が始まった。 「・・・・・・・・・・・・・・」 ファントムの心中を察したのか、ペタが無言でスタッフから輸液のセットを受け取りアルヴィスの右腕の静脈に針を留置する。 その時だった。 「――――・・・ゴホッ、ゴホ・・・!!!」 急に顔を仰向きにされたせいだろう、アルヴィスが再び盛大に咳き込み始めたのである。 ゴボ・・と音を立てそうな勢いで、大量の鮮血が再び口許から溢れ出した。 真っ赤な血が、アルヴィスの顔と首、胸を濡らしていく。 「―――――───!!」 一瞬で、周囲の空気に更なる緊張が走った。 「ファントム!」 ペタが、緊迫した面持ちで名を呼んだ。 チューブを手にした認定救命士が、焦ったように首を振り。 「・・・出血が多くて・・・、挿管部分が見えません!」 喉頭鏡を手に舌根部を持ち上げて、声門を必死にのぞき込みながら叫ぶ。 気管からの出血が激しくて、挿入部分が確かめられないのだ。 その間も、アルヴィスは苦悶の表情を浮かべてゴホゴホと咳き込み血を吐き続ける。 「・・・・・・・・・・・・・、」 ―――――─このままでは・・・・。 ファントムの、血の気が下がり震えていた身体がカッと熱くなった。 「何してる!? ・・・貸せっ!!」 乱暴にスタッフを押しのけ、ファントムは挿管チューブと喉頭鏡を奪い取る。 そして苦しそうに咳き込み続ける青年の顔を押さえ付け―――――─喉頭鏡を口に突っ込み、それで舌根部を押さえ付けて中を覗き込んだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 確かに、溢れる血液が邪魔をして声門部分が良く確かめられない。 けれども、この奥に入れる事が出来なければ―――――─アルヴィスは助からないのだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 チューブを持つ手が冷えて、また震えてきた。 下手な挿入をすれば、更なる大出血が待っている。 そうすれば、・・・・あっと言う間にショック死なのだ。 アルヴィス・・・・!! 今までなら、どんなに悪条件だろうと挿管くらい簡単に出来た。 失敗したことも、無い。 失敗することを考えた事も無かったし、・・・まあ失敗したらそれはそれで、アプローチは不可能だったのだと―――――患者に運が無かったのだと考えようとしていた。 けれど、今は。 失敗が・・・・恐ろしい。 「・・・・ペタ・・・」 チューブを手にしたまま。ファントムは縋るように、いつでも忠実に自分を支えてくれる男を見た。 しかし、男は静かに首を横に振る。 「――――駄目です。私はしばらく挿管などやっておりません・・・・まして、アルヴィスは出血が酷い上に気管が狭窄している・・・・失敗するのは目に見えております」 ここは、貴方が。そう言って、ペタはファントムを即してきた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 チューブを握りしめ。ファントムは必死に状況を打開しようと考えを巡らせた。 だが、―――――無い。 自分がやる以外、アルヴィスを助ける方法は・・・・・無い。 病院までは間に合わない―――――早く挿管して、吸引チューブをセットしておかなければアルヴィスは間違いなく窒息する。 そうなれば、失血死しなくても死は免れない。 やるしか・・・無いのだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 ギリッと奥歯を噛み締め―――――─ファントムは再び喉頭鏡を持ち直し、アルヴィスの気道を覗き込む。 そして手にしていたチューブをゆっくりと差し込み―――――─チューブの先端に全ての意識を集中させて奥へと押し込んだ。 呼吸すら止めてしまう程の緊迫した数瞬の後。 ズッ・・・と、独特の感覚が指先に訪れ、ファントムは気管挿管が成功したことを察する。 「・・・・・・・・・はいった」 短く言って、ファントムは大きく息を吐いた。 すかさずペタが挿管チェックの為の聴診器をファントムに差し出し、固定バンドでアルヴィスの口から出ている挿管チューブを固定した。 極度の緊張で汗ばんだ手で聴診器を受け取り、入り具合を確かめてファントムはもう一度安堵の溜息を吐いた。 「・・・・ちゃんと入ってる・・・」 疲れたように言って、ファントムは待機していたスタッフの方へ顔を上げる。 切羽詰まった状況から少しだけ解放されれば、猛烈な怒りが込み上げてきた。 認定救命士が聞いて呆れると、鼻白む思いがファントムの心に吹き荒れる。 何のために、挿管準備をしろと言ったのか・・・・訳立たずめ。 当初は自分で挿管しようと思っていたくせに、それをすっかり棚に上げ、ファントムは憤った。 間に合わなかったら、どうしてくれるつもりだったんだ・・・・・!? 自然、表情がキツクなる。 「―――――─何してる? 挿管は済んだ。・・・早く運んで」 不安な表情から打って変わり憤りを隠せない顔で言うファントムに、スタッフ達は怖じ気づいたのか、慌てた様子でアルヴィスの乗った担架を持ち上げて室外へと向かった。 「・・・・ペタ、僕たちも行くよ」 それを追うように立ち上がり、ファントムは所々衣服に付着した血液にも頓着しない様子でバスルームを出る。 気管内挿管が出来て、コレで一応窒息の心配は薄くなった。 けれどまだ、決して安心は出来ない。 気管があれ以上狭窄したり、酸欠が進んで心臓に負荷が掛かりすぎたら―――――大量に出血してショックを起こしたら・・・・・心配の種はまだまだ尽きないのだ。 アルヴィスを失ったら―――――─そう考えるだけで、ファントムは自分の心臓が止まってしまいそうな気がした。 想像だけで、死んでしまえそうだ。 呼吸が止まり、鼓動が途絶え、身体がだんだん冷えていき。名前を呼んでも、揺すっても、その長い睫毛は伏せられたまま。・・・・・・そんな彼の姿を思い浮かべただけで、ファントムは倒れ込みそうになる。 君を失ったら、―――――─僕の全ては止まってしまう。 呼吸も心臓も、身体の機能全て・・・・僕は動きを止めてしまうだろう。 だって、君が居ないなら意味がない。 生きてる意味も、存在してる価値も、理由だって何にも無い。 君のためなら世界だって壊してあげる。 君のためなら何でもする。 だから。 僕のために――――生きていて。 移動用担架から救急車内のスプリング付の担架に移され、グッタリと横たわっている青年の手を両手で包み込みながら。 ファントムは祈るように額をその手に押し当てた―――――───。 Next 10 ++++++++++++++++++++ 中編言い訳。 ・・・・素人なので、専門知識はありませーん(爆) 多分まあ色々間違ってますよ・・・(殴) でも無理です。今回専門知識ばかりオンパレード過ぎて 脳が疲れて見直せませんスミマセン(土下座) アルヴィス酷い目に遭わせてごめんなさいです(汗) でも、苦しんでるアルって可愛いですよ、ね・・・!(←救いようナシ) |